有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。
あなたは、ご自宅に仏壇があり、尚且つお供え物をお供えするという習慣をお持ちでしょうか?
特に真宗・浄土真宗のお坊さんがよく使われる表現を用いるならば「仏壇にお供え物をお供えさせて頂く」ということになります。
お供え物というのは、お寺に行けばご本尊の前にお供え物がお供えされている風景を見かけるときが御座います。
京都の清浄華院と、東京の増上寺で行われた24時間不断念仏会では、阿弥陀さんの前に参加された方が持ち寄られた手土産を、随時お坊さんがお供えされていました。
お坊さんが、お土産ものを丁寧にお供えされている姿も、美しいと感じたり和んだりしたものです。
仏壇にお供え物をお供えする意味
私は「お供え物を仏壇やご本尊にお供えさせて頂く」という段階を経るエトス(エートス・行為様式)を、凄く尊んでおります。私のところでは、お中元や何かのお土産を頂いた際には、仏壇にそれらをお供え物としてお供えさせて頂く習慣が根付いております。
先日も頂いたお中元の果物をお供えさせて頂きました。
経済活動によって、巡り巡って現世利益・功徳として賜りました財も、仏壇にお供えさせて頂くという習慣が御座います。
先日、西本願寺のお坊さんに御法話を頂いた時、御法話の中でお坊さんも同じようにされていると教えて下さいました。
そのお坊さんは、お布施を頂いたら、一度ご本尊にお布施をおさめられてから、お下がりとして頂いてのち、坊守(お坊さんの奥方のこと)にお預けするそうです。
この辺り私と考え方が共通しており、財も食べ物も、一度「お供物」としてお供え物としてお供えさせて頂き、そのお下がりを有り難く頂戴する、という段階を踏んでおります。
仏壇にお供え物をお供えするという風習について、合理主義的な人や合理化至上主義の人からすれば、「なんだその不合理で面倒なことは。」と、思われるかも知れません。
「仏壇にお供え物をお供えする意味ってなんだ?」と、合理主義者の人から問われたら、
:仏教者の自覚を改める機会にもなる
と、私は一つの返答例として返答致します。
この返答も不合理と思われる人がいらっしゃるかもしれませんが、私はこの不合理を大切にしたい、そのように思うております。
もちろん、そのような習慣が無い人も、それはそれで一つの生き方だと思うてはおります。
それはそれとして、私というこの在り方においては、大切にしているエトスということです。
私にとっての「仏壇にお供え物をお供えさせて頂く習慣の意味」には、このような「仏教者の自覚」によるものも大きいであろうと、自己分析しております。
仏壇にお供え物をお供えする習慣が育む謙虚さ
仏壇にお供え物をお供えする習慣の意味としては、:謙虚な在り方、謙虚さを身につけるきっかけとなる
という可能性もあります。
もちろん、仏壇にお供え物をお供えしているからと言って、それが必ずしも謙虚な人になれたり、謙虚さを身につける事になるとは限りません。
それに、「俺、仏壇に毎日お供え物をお供えしているんだぜ、どうだ、偉いだろう?」というのは、自己顕示欲全開な慢の煩悩に当てられているともみえますからね。
形骸化してしまった在り方でのお供え物をお供えするというエトス(行為様式)は、慢の煩悩を増幅させるだけで本末転倒です。
これは、「仏壇がある家と無い家の、子供達の優しさについての比率」への突っ込みとしても私は考えておる話です。
仏壇がある事は、確かに場の力が根付く事もありますが、大切なのは場と、その場で行うエトス(行為様式・習慣)とパトス(精神性・心の動き)です。
仏壇にお供え物をお供えするとき、お供えさせて頂ける事に感謝の念を持ち、真心を込めてお供えさせて頂く、そのパトス(精神性)を形にしたエトス(行為様式)が大切なのです。
特に私が意識して欲しいのは、この
:仏壇のお供え物をお供えするエトスはパトスを意識して行う
ということです。
その時に口に出る御経や「南無阿弥陀仏」の六時名号は、ロゴス(言語や言葉)で感謝の念を発音しているという考え方です。
以前お話しさせて頂いた「ロゴスとパトスとエトス(エートス)のバランスが大切」とお伝えさせて頂いたのは、こういう場合に活かされてくるのです。
エトス(行為様式・習慣)を行う際、「お供え出来る物を頂いたご縁と、お供えさせて頂けるこの身とご縁に感謝致します。」というパトス(精神性・心の動き)も意識してみては如何でしょうか。
これは私の例ですが、私は先日お中元を頂いたときに、仏壇にお供え物をお供えさせて頂きました。
その時に、このようなパトス(精神・心の動き)を、ロゴス(言語化)にして、合掌・礼拝し南無阿弥陀仏を称えるというエトス(行為様式)で感謝を表しました。
:お供え出来るお中元を頂けたご縁に感謝致します。
:お供え物を、こうしてお供え出来るこの身に感謝致します。
:お供えさせて頂いたお供え物を、お下がりとして頂ける事に感謝致します。
ちなみに、この記事を投稿している時期は、まだお供え物をお下がりとして頂いておりませんが、お下がりとして頂く場合は3行目の事をきちんと仏壇の前でご報告してから頂きます。
このような事を習慣づけていくと、数多のご縁に感謝する自覚を持ち、それが謙虚さとして身につくとは思いませんか?
もちろん、謙虚さを身につけ謙虚な人になる習慣として行うならば、常に意識しておかないといけません。
でも、仏壇にお供え物をお供えさせて頂くというエトス(行為様式・習慣)を丁寧に行い続ける事は、謙虚さを身につけるには凄く力を発揮するであろうと、私は実感しております。
私は謙虚さとは「奥ゆかしさ」という意味も見出しており、今回お話しした事を実践する事で、「奥ゆかしい謙虚さ」を身につけるに至るのではないか、そのように思います。
奥ゆかしく謙虚な人柄を形成するためという現世利益・現世功徳ありきで、神仏を活用するのはどうかと思う部分はあります。
祈りや合掌・礼拝は、自分都合でやることではないというのが、私の考え方であり、私の寺社仏閣との関わり方や仏道の歩み方でありますからね。
ただ、結果論としてこのような効果が得られたら、それはそれで一つの効能だと思うのですが、如何でしょうか。

お盆に精霊棚とお供え物をお供えしたらそれを習慣づけてみる
宗派や各々の家の宗教にもよりますが、日本では多くのご家庭で、お盆の季節や期間には精霊棚をこしらえて、お供え物をお供えするものかと存じます。うちは浄土宗で、毎年精霊棚をこしらえてお坊さんにもお越し頂くという話を、以前に致しました通り、お盆・盂蘭盆会の期間には仏事として執り行わせて頂いております。
参照:「お盆情報まとめ」
浄土真宗では、迷信や占いに惑わされないように、という生活信条もあるためか、特別なお供え物をお供えするというお盆・盂蘭盆会の風習はない、とのことではあります。
盂蘭盆法要はありますがね。
ちなみにこの辺りの事は、先日西本願寺に「拝読・浄土真宗のみ教え」に、生活信条やお盆について書かれており、そこで学ばせて頂きました。
お盆・盂蘭盆会の期間に、仏壇にお供え物をお供えする風習があるならば、それを日常的にも行う、それを習慣づけるという提案を致します。
そうすることで、上で話してきた通り、奥ゆかしさという意味の謙虚さを育むきっかけにもなるでしょうし、ご縁への感謝を日常的に感じる事が出来るに至ります。
ご縁への感謝を常日頃から意識できるようになれば、また奥ゆかしさや謙虚さに現れて、という、良い方向性を持ったパトス(精神性)のスパイラルも育まれるというものです。
お盆・盂蘭盆会期間中に行うお供え物の習慣は、お盆をきっかけとして、日常の習慣として根付かせても良いのではないか、そのような事を思う今日この頃であります。

参照1:「ロゴスとパトスとエトス(エートス)の意味と宗教」
参照2:「エトス・エートスとは拠(よりどころ)となる力」
私の例を挙げるなら、ご飯が炊けたら、毎日仏壇の前に持って行き、まずはご本尊やご先祖様に召し上がって頂いてから、お下がりを頂くというエトス(行為様式)を続けております。
その際、常に「食を頂けるに至までの全てのご縁」に感謝申し上げております。
仏壇が無ければ、せめて仏壇があるような振る舞いをするだけでも、随分と違ってくると思います。
仏壇にお供え物をお供えする習慣と風習は、私個別の願望としては、継承されていって欲しいと思うところで御座います。
合掌