有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。
先日、友人と珈琲を飲んでいるときに、友人から「自己顕示欲の強い人による小さな親切大きなお世話は厄介だ」という話をして貰いました。
その友人は、ちょいと困った事に遭遇して、周囲の人に助けては貰えたけれども、それがあまりにもうざく感じられる程であり、それにも困った、という話です。
助けて頂いた事それ自体は感謝したいところですが、確かにそれが行き過ぎると、自己顕示欲の強い人だと思われたり、自己顕示欲の塊か、と疑われることもしばしば御座います。
私も、親切を押しつけてしまい、失敗したことは幾度もあるがゆえに、自分事として戒めるきっかけの話として、有り難く頂いた次第で御座います。
自己顕示欲の強い人の心理とは
自己顕示欲とは何か、その意味につきましては、以前にこのお堂(ブログ)でもお伝えした事があります。簡単にだけおさらい致しますと、自己顕示欲とは
:自分を見て欲しいと言う欲求、承認欲求
という意味が御座います。
ようするに、「私をもっとよくみて頂戴、かまってちょうだい」という心理です。
自己顕示欲の強い人というのは、声が大きくて傲慢な人柄であるというパターンが御座います。
確かに、やたら声が大きい人や、自分都合で事を成そうとする人は、自己顕示欲が強い人であると観られやすいのは理解出来ます。
ただ、一方で、一見すると親切をしているようにみえる人でも、実は自己顕示欲が強い人であったり、その心理が根深かったりするものです。
自己顕示欲とは、人である以上は誰しもが大なり小なり持ち合わせている承認欲求である、私はそのように頂いております。
そして、仏教の言葉で言いますれば、「自己顕示欲とは、すなわち煩悩なり」と言うのが、私の認識で御座います。

自己顕示欲の強い人の心理が表れている実例
自己顕示欲の強い人とは、どのような姿なのか、その心理が垣間見れる事例は、現在でしたら特にインターネットビジネス関連の世界に見受けられます。なんちゃらビジネスを教えています、とかいう高額塾や自称コンサルタント、あるいは自己啓発系ビジネスの講師などに、よく見られる姿であります。
典型的な例は、自称コンサルタントやビジネス指導者のブログなりウェブサイトで、顕著に自己顕示欲の強い人である姿と心理を垣間見ることが出来ます。
よくあるのが、「コンサル企画でこれだけコンサル生を稼がせました」というやつです。
この「コンサル生を稼がせた」という表現自体が、もう自己顕示欲の塊であると言う事を如実に物語っております。
なんとも、我利我利亡者というのは、自己顕示欲の心理がわかりやすい。
また、それらに共通しているのが、これらの実績(と、自分では思い込んでいる)と、プロフィールの充実っぷりです。
やれ「何々資格取得」「これだけのビジネスを幅広く現役で活動中」と、さも自分が成功者で凄い人物であるかのように、プロフィールを着飾っております。
はっきり言って、これらは「綺語」や「妄語」など、仏教が戒める「十悪」のうち、幾つもの悪業をなしている行為であります。
少なくとも、「綺語」や「妄語」や「両舌」など、口業に関する戒めは一切守られておりません。
それに気づく事なく、堂々と自己顕示欲の塊で有る事を示してくれている我利我利亡者達には、反面教師の出汁として使わせて頂くのが、我らの良き智慧かと存じます。
プロフィールを着飾っていて、自分の実績だと勘違い・錯覚していることに気づかぬ憐れな亡者の自己紹介なり自慢ブログは、自己顕示欲の強い人の心理が描かれていると見るくらいで丁度良いでしょう。
あのような我利我利亡者に、金銭・財という餌を与える事は、財施という布施行では御座いません。
むしろ、逆に我利我利亡者を更に苦しめてしまう行いであります。
故に、慈悲の心と眼を持って、財を与える事なく見守り申し上げる事こそが、かのような我利我利亡者達に、己が犯している悪業に気づく機会を与える徳となり得ることで御座いましょう。
自己顕示欲の強い人の心理とは「慢」の煩悩
自己顕示欲の強い人の心理とは、一体いかなるものであるか。このことについては、仏教・仏法の智慧を拝借し、仏法に照らして頂く事で、みえてくる事が御座います。
自己顕示欲とは、「欲」と付いている通り、欲求の一種であり、承認欲求の一つであると言えます。
そして、承認欲求としてみた場合の自己顕示欲とは、すなわち「自己を顕示する、顕し示す欲求」です。
自己を顕示するということに見られる心理をおっていくと、
:自分を見て欲しい、だから自己を顕し示す
というところへ行き着きます。
このことが如実に表れた、自己顕示欲の強い人であるという心理がみえる姿が「自慢」です。
自慢している人に対して、「あいつはいつも自慢ばかりで、自己顕示欲の強い人だな」と、思った経験をお持ちの方もいらっしゃるかと存じます。
この「自慢」が、自己顕示欲の強い人の心理を示すもので御座います。
仏教においては、「慢」の煩悩を戒める教えがあります。
「自慢をする」という行為は、慢の煩悩をひけらかしている行為でありますから、仏教の視点から観ても、戒めるべき行為です。
しかし、上で挙げた実例、コンサルタントや自己啓発系ビジネス講師などは、やたら自慢をしており、慢の煩悩をひけらかしすぎております。
虎の威を借る狐でしかないのに、やたら有名人とのツーショット写真などは、「慢の煩悩」に犯されている情けない姿を現しているに過ぎません。
虎の威を借る狐、他人の褌で相撲を取る我利我利亡者達の姿は、まさに慢の煩悩に毒されてしまった憐れな自己顕示欲の塊で御座います。
更に言うなれば、自己顕示欲の強い人の心理において、「もっと自分を良く見て欲しい」という、自己都合で他人の見方をコントロールしようという煩悩も御座います。
他人が自分をどう思うか、それは自分の都合で支配出来る事ではないけれども、そうとも知らずに自慢ばかりしている人には、そのような心理・煩悩の働きに由るところがあるかと存じます。
良いと思われる事をした時に、自慢をしたくなるというのは、この心理が働いているからであると考えると、わかりやすいのではないかと思います。
自己顕示欲の強い人の心理とは、「自分をもっと凄い人と見て貰いたい、慢の煩悩に犯されている状態」というのが、仏教の視点から観た言説であります。

自己顕示欲の強い人ならぬため、欲の心理に毒されぬ仏教の智慧
では、自己顕示欲の強い人にならないため、欲の心理・慢の煩悩に犯されぬためには、どのようにすればよいのか。そのことについて、仏教の智慧が、力となって下さいます。
上でお伝えしております通り、自己顕示欲の強い人の心理というのは、
:自分を良い人と見て欲しい、凄い人と見て貰いたい
という煩悩の働きが御座います。
ゆえに、ちょっと良い事をしたり、自慢出来そうなことがあると、それをアピールするものです。
また、全然なんでもない事や、自慢するような事でないものも、「綺語」などを用いて着飾り、あたかも「自分はこんなに良い行いをしている」と、自慢する傾向にあります。
もちろん、本当に善行と思えるような事をされることもあるでしょう。
しかし、その時に「自分は本当に良いことをしているんだ。」と、自慢げにアピールするのは、自己顕示欲の強い人がやりがちな事で御座います。
その行いや心理というのは、他人の目から見ると、「良いことをしているのはわかるけど、自慢するのはちょっと・・・。」と、思われる自体を招きます。
そのような時に、仏教では、「雑毒の善(ぞうどくのぜん)」という教えによって、戒めて下さっています。
仏教においては、善行・功徳を積むことは大切であると教えて下さっていますが、それが独りよがりであったり、押しつけがましいことにならぬようにも、戒める教えが御座います。
真宗・浄土真宗では「教行信証」に、
:虚仮雑毒の善を以て無量光明土に生ぜんと欲する、これ必ず不可なり
と、「雑毒の善」という言葉が出て来ます。
この「雑毒の善」とは、自分の都合が入った善であるという意識がなく善行を為した時に、ついつい「自分は善い行いをした」と、善いことをしている気分になることです。
その事に満足することが続き、それが慢性化していくと、自分は立派なことをしているという気分に浸っていき、それが溢れてしまったときに、自慢するという行為に及びます。
そうなると、自己顕示欲の心理に毒されている状態となり、自己顕示欲の強い人に見られがちな姿そのものとなる、というわけです。
ゆえに、この事を説いてくれる仏法に出会い、それを意識する事によって、自分都合の善をなす事を戒め、善い行いをしている自分に酔いしれるという心理を戒めて下さるのです。
このことについて、釈徹宗さんが、「真宗の教えを学ぶと、自分が立派なことをしている気になっているんじゃないか、と呼びかけられるようになる」と表現されています。
「雑毒の善」という仏教の教えを大切にすることで、自己顕示欲の心理・煩悩に毒されぬ在り方でいられる、私はそのように味わい、教えを頂いております。
尚、今回の話と関連する事柄は、こちらでもお伝えしております。
参照:「自己顕示欲とは」
参照2:「自己顕示欲の意味と抑える方法を仏教から学ぶ」
自己顕示欲という煩悩に毒されぬよう、仏法に照らされて、自己を見つめ直すきっかけとなりましたら、嬉しゅう御座います。
合掌