自己顕示欲とは|「うざい」と嫌われないために学ぶべき事

有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。

あなたは、「自己顕示欲(じこけんじよく)」という言葉と概念について、どのように思われるでしょうか?
480760 以前お伝え致しました「傲慢」「高慢」という言葉と同じく、自己顕示欲という言葉は、現在はあまりよろしい意味で使われる事がないように思えます。

「あいつは自己顕示欲の強い奴だ、うざい」など、そんな感じで使われる言葉ではないでしょうか。



確かに自己顕示欲とは、行き過ぎると弊害もあり、うざがられる概念であるのは確かだと、私も理解しております。

仏教ベースで考えても、自己顕示欲は時として傲慢になったり、慢の煩悩に支配されているとさえ思える事態を招きます。

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自己顕示欲の意味と概念

そもそも「自己顕示欲」とは、どのような意味や概念なのでしょうか。

文字を見れば、それが大体把握出来ますね。



「自己顕示」とは、
:自己を顕し示すこと
です、そのまんまの意味ですね。

「自己顕示」の意味をATOKで引くと
:自分の存在を必要以上に他人に目立つようにすること
とあります。

わかりやすく言うと、「こんなに凄い私を見て頂戴」ということです。



確かに是をしきりにやられると、私なら引いてしまいかねません。

私は、あまり自己主張の強い人って苦手なものでしてね。

それを何とか苦手にならないように変えていくのが、私に果せられた修行ではあるでしょうが。



「自己顕示欲」の意味は、この辺りからみえてくるのでは無いでしょうか。

つまり「自己顕示欲」とは、
:自分の存在を必要以上に他人に目立つようにする欲求
という意味と概念であると導き出されます。
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自己顕示欲は全部が全部悪いという意味ではないけれど・・・

自己顕示欲については、マズローの欲求について学んだ事がある人ならば、欲ご存じの事かと存じます。

私も、大学でマーケティング論などの経営学を学んでいたときに、マズローの欲求を教えて頂きました。



自己顕示欲は「承認欲求」に分類されて、あながち悪い欲求であるとは言えず、全部が全部悪いわけではありません。

承認されたい、認められたいという欲求があるから、踏ん張れたり「百尺竿頭進一歩」という禅語を体現しようとする力にもなり得ますからね。

人の性質として、どうしても大なり小なり「承認欲求、認めて貰いたい」という願望なり欲求があるのは否めないものです。



しかし一方で、自己顕示欲の意味である「自分の存在を必要以上に目立たせる」というのは、まさに以前お伝え致しました「慢」の煩悩に繋がります。



現代的な意味での「自慢」も、自己顕示欲が要因であると言えそうです。

仏教の視点からは、「自慢」も「慢」の煩悩です。

また、虚栄心と類似しているという見方も出来ます。

上でも述べた通り、自己顕示欲があまりに強い人の自己主張は、「ちょっと勘弁・・・」と、引くレベルのことも御座います。



承認欲求である自己顕示欲が、あまりにも強すぎるのは考えものであります。
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自己顕示欲が強い人の実例

自己顕示欲が強い人がやらかした実例について、一つ私が体験した例を紹介致します。



もう15年以上前の話ですが、身内の結婚式が御座いまして、そこに親戚一同が介していた時の事です。



親戚に、当時まだ赤ん坊だった子供がぐずっており、何かと思いきや、排泄をしたとのことです。

そこで、その赤ん坊の母親が席を外していたためか、父親が排泄処理をして、新しい排泄用衣類を着用するという事をやっておりました。

私は明後日の方向を向いて、ぼへーっと結婚式が始まるのを待っておったのですが、親戚達が赤ん坊と父親に近寄ってきて、しきりに褒めだしたのです。

「まあ、男の人がおむつを替えてあげるなんて、昔は考えられなかったのに、偉いわねえ。」とか何とか。



そして、そこからが、私は「ああ、これはよろしくないかも。」と思うような事に。



お嬢さんの父親であるその親戚は、その後はその場で何度も、そして結婚式直後の披露宴でも、「俺は時代がどうのこうのではなく、きちんと父親としての勤めを果たしたまでだ。」と、何度も何度も終始吹聴しておりました。

赤ん坊の世話をするその行為は、私は非常に尊いなあ、とは思うのですが、それを自慢げに何度もアピールするのは、なんとまあ・・・と思うたものです。



これは私の体験した実例ではありますが、あなたの周囲にも、そのような行為に及ぶ人がいらっしゃいませんか?

ちょっとゴミ拾いをしたり、道でたまたま見かけた空き缶をゴミ箱に収納したことを、やたらアピールする人とか。



また、就職活動の時は、まさに自己顕示欲が前面に出て、自己顕示合戦になっているという現実も体験した事が御座います。

必至に「ここに行ってボランティアをしてきました」とアピールしたり「ここではリーダーをつとめていました」と、必至に論じる姿の実に多かった事か。

中には、聞かれてもおらんのに、必死にそういうことを美化してアピールする事例もあります。

今でも、そのような人は存外多いのでは無いか、そのように私は勝手に思うておりますが、現在の就職活動ってどのような感じでしょうか。

ボランティア活動に興じることそれ自体は尊いけれども・・・という思いがあるのは、私の色眼鏡だとは思いますがね。



私は、そのような行いを見かけると「陰徳が積まれなかった」と、生暖かく見守っております。
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自己顕示欲の意味を知り、煩悩に毒されない仏教の智慧「陰徳」

自己顕示欲全開で、「自分はこんなに良い事をしましたアピール」を、ついついしてしまうと、上で何度か申し上げたように周囲から「うざい」やら迷惑な目で見られる可能性もあります。

「ああ、またやってるよ。」と、呆れてみている人もいらっしゃるやもしれません。

そうなると、気づいたときには時既に遅し、自己顕示から自己嫌悪に繋がるという嫌なことに。



そうならないために、自己顕示欲に毒されてしまわない智慧が、仏教・仏法の教えに御座います。



仏教が説く教えの一つに、
:陰徳を積む
という教えがあります。



「徳を積む」というのは、意味や概念はご理解頂けるかと存じますが、その徳を陰で積む事を「陰徳を積む」と言います。

「じゃあ、何が徳か」という議論は、ここでは省略させて頂きますこと、ご勘弁下さい。



陰徳を積むには具体的にどうすれば良いのか、というと、これは「布施波羅蜜」つまり「布施行」を行う事で実践する事が出来ます。



例えば、現代で言う人間視点から観た「自然災害」において、人知れず被災地にそっとお布施させて頂く、というのも布施行ですし、陰徳を積む事に繋がります。

更に具体的な事例を上げると、以前ランドセルをクリスマスに児童相談所に届けた人達がいますが、あれも陰徳を積んだ事になります。

この事については、曹洞宗の禅僧である枡野俊明さんも、「禅的生活ダイエット」で伝えられていました。


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私も、この「伊達直人より」として本名を伝えず、ランドセルをそっと児童相談所に送られた行為は、まさしく陰徳を積まれた行為であると味わわせて頂いております。

出所を明らかにしないと怪しいし防犯上問題があるとされて、受け容れられない可能性はありますが、それはそれとして、行い自体は尊さを感じるところが御座います。

無分別智を説く仏教であり、それを学び実践するのが仏教徒・仏教者でありますが、私は思わず「格好良いし、尊い」と思いましたからね。



逆に、例えばお寺にお布施と称して寄付をしたとして、「領収書を頂戴な。」というのは、布施ではありませんし、陰徳を積む行為ではありません。

また、「寄付金ランキング」などで、自分がこれだけの寄付をしたんだと、名前を大きく書いて貰うというのは、自己顕示欲が前面に出た在り方であり、これも陰徳を積んだ事にはなりません。

ましてや「俺はこれだけ寄付したんだ、何か見返りや功徳があるはずだ。」なんて思うのは、まさに自己顕示欲のなせる業です。

達磨大師がいらっしゃったら「無功徳(むくどく:功徳はありゃしませんよ。)」と、喝を入れられるでしょう。



世のため人のために布施行を実践し、そこに功徳を求めず人知れず布施して人知れず去って行く、これが「陰徳を積む」という行為です。

そして、布施行を実践した時、人に言いふらしたくなったり、自慢したくなる煩悩が沸いてきたら、それを見逃さずに観察します。

そうすることで、自己顕示欲という欲求・煩悩を捉える事が出来て、ぐっとこらえる事に繋がり、自己顕示欲とも上手に付き合っていけるように進化していくのです。



自己顕示欲の意味を学びなおし、自己顕示欲が前面に出そうなとき、「陰徳を積む」という言葉と布施行を思い出すこと。

そうすれば、自己顕示欲に支配されず、謙虚で奥ゆかしい人になっていけるのではないか、私はそのように思うております。



合掌

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