有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。
前回は、宗教を考える際に力になってくれる概念「ロゴス・パトス・エトス(エートス)」について、お伝え致しました。
ロゴスとパトスとエトス・エートスとは、ビジネスの場面でも使われる事がある用語です。
本来は、これらは相手を尊重するとか、他者との関係性をより良くして、よりよく共生(ともいき)を実現するためにある概念であると、私は頂いております。
今回は、ロゴスとパトスとエトス(エートス)の中から、特にエトス・エートスとは何か、行為様式の持つ力についてお伝えしていきます。
エトス(エートス)によってその人が何を宗の教え(宗教)としているかが読み取れる
あなたは、目の前にいる人がどのような宗の教え(宗教)を大切にしていらっしゃるかを見極める場合、どこに着目されるでしょうか?最も手っ取り早いのが「あなたは何を信仰していますか?」「あなたの信じる宗教は何ですか?」と尋ねることです。
でも、誰が言い出したのかは知りませんが、日本ではビジネスマナーとして「政治と宗教と身体的特徴については話題にしない」というのがあります。
支持する政党や信じる宗教について聞くと、気まずくなったり喧嘩になったりしかねないから、という配慮ではあります。
ただ、杓子定規に「宗教の話はダメだ」なんていうのは、なんだか窮屈な気がしますがね。
その事については別の機会に触れるとして、信仰する宗教を知りたければ、常識的に考えると手っ取り早く「ロゴス(言葉・言語)」によって聞くのが一番の近道です。
でも、やはりビジネスマナーの事もありますし、なかなか聞けない時もあるでしょう。
そこで、ロゴスとパトスも同時に現れ、またロゴスとパトスがなくても、一見したら「ああ、この人は仏教徒でこの宗派なんだ。」という事が分かるヒントが、エトス(エートス)です。
例えば、私は浄土宗の檀家であり、浄土宗の仏教徒ですが、「それを表して下さい」と言われたら、何をすると思われますか?
私ならば「十念(南無阿弥陀仏を10回)」を称えさせて頂くというエトス(行為様式)で、私が宗とする教え、どのような仏教徒であるかを現す事が出来ます。
私はフリースタイルな在家仏教者という自覚がありますが、軸や宗教的に立ち返るところとして、浄土宗を宗の教えとしております。
それをエトス(行為様式)で表すと、「十念」というわけです。
仏教の各宗派を詳しく勉強した人なら、エトス(エートス)にて、相手がどの宗でどの派かもわかるようになりますよ。
例えば、浄土真宗本願寺派(西本願寺が本山)と、真宗大谷派(東本願寺が本山)では、「正信念仏偈」の読み方が違います。
勤行で正信念仏偈を読む、正信念仏偈をどのように読むか、という部分がエトス(エートス)です。
「これがこの宗派の行為様式」という、ある程度の前提知識は必要ですが、それがあれば、相手がどのような宗の教え(宗教や信仰心)をお持ちなのかが垣間見られます。
逆のことを言うと、エトス(エートス)によって、自分の宗教心や、そこからなる精神性を示すことが出来るというわけです。
それを具体的に伝えるには、ロゴスを用いることで、より伝わりやすくなります。
もちろん、そのためにロゴス(言語力・言葉)を磨く事も大切です。
エトス(エートス)の意味や力は大きい
私は、以前の表題では「ロゴスとパトスとエトス(エートス)」と、エトス(行為様式)を最後に持ってきましたが、本来ならエトスを最初に持ってくるべきだったかな、と、反省しております。と言いますのも、エトス(行為様式・習慣)によって、その人の人格なり在り方が形成されると言う事が、往々にしてあるからです。
「習慣の力は大きい」と言いますが、私の体験からもそれは実感しておりますから、感性のレベルで理解しております。
最近は「習慣が大切だ」といって、習慣コンサルタントなる職業も出回っていて、決行繁盛しているらしい根っこには、そういった以上があるのではないかと思うくらいです。
最も、「習慣が大切だ」と、口だけ・言葉だけ、つまりロゴスだけで終わってしまっている人も多いのではないかという疑問もありますがね。
行為による習慣というのは、時として人格や性格も形成していくものです。
そして、特定のエトス(エートス)を実際に行う事によって「私は、ここにいる」「私はこの土地のこのように伝わっている事を持つ継承者だ」という自覚も呼び起こすきっかけとなります。
このようにして培われたエトス(行為様式・習慣)は、土壇場の時や、いざという時に力を発揮する事があります。
実は是、「怒らないおまじない」とか、そういう迷信めいた物が一定の力を発揮する事も、エトス(エートス)を軸として考えるとみえてきますよ。
例えば、怒らない作法や智慧として、禅僧の板橋興宗さんが、それを実践されています。
禅宗と言えば、占いや迷信からは対極にありそうな仏教の宗派です。
そのような禅仏教を学んだ板橋興宗さんは、怒りを覚えたとき等は心の中で「ありがとさん、ありがとさん、ありがとさん」と、唱えられます。
そうすることで、怒りがすーっと消えていくまでにいたる程になった、という話をされています。
一見すると迷信めいておりますし、「怒りを消すおまじない」であり、全然禅とは思えない、という見方も出来るでしょう。
でも、これは板橋興宗さんが編み出された「怒りをやり過ごすエトス(行為様式)」と観た場合、みえてくるものがあります。
怒りを覚えたときに、怒りに支配されずにやり過ごす行為が「ありがとさん三念」であり、唱えている間に怒りが時間経過によって薄まります。
占いや迷信という側面からだけではなく、行為様式としての側面から眺めてみると、違った発見や味わいが出てくる事が、この事例からおわかり頂けるのではないでしょうか。
このような事例から、おまじないや占いの効能って、エトス(エートス)の概念から観ていくと、案外馬鹿に出来ないとも思えてきます。
占いやおまじないに、具体的な行為様式が伴えば、確かに一定の力を宿したり効果効能があるのも頷けます。
こうして考えて観ると、エトス(エートス)の意味や力って、改めて大きいと感じる次第であります。

エトス・エートスとは拠になる力
エトス・エートスとは、私は釈徹宗さんのお知恵を拝借して、行為様式という意味で理解しております。また、行為様式の連続による習慣や風習という意味でも、エトス(エートス)とは何かという意味を頂いております。
その上で私は、エトス・エートスとは、
:拠(よりどころ)になる力を育む概念
という頂き方もしております。
その事例として、東日本大震災の復興に際して、お祭りの復活をするという手順がすでに成されているという話を伺いました。
一見すると「こんな時にお祭りとか不謹慎だ!」とか、現在ならいわゆる「不謹慎厨」だとか「不謹慎坊」なる存在に揶揄されそうなことですね。
でも、実はこの「お祭りなど、その地域の風習や行為様式から始める」という復興の在り方は、理に適っている部分もあります。
その地域特有の風習や伝統を、実際にお祭りをするという行為によって、その地域住民であるという自覚が強くなります。
そうして、生きる力や復興への力となる、そのような作用もあるという話を伺ったことがあり、なるほどなあ、と私も頂いたことであります。
これは、確かに私の体験からも実感した事がありますし、行為の習慣や風習によって、意思力や生きる力が土壇場で甦ると言う事は、往々にしてあります。
「WILLPOWER意志力の科学」を読んだ人なら「あ、ひょっとしたら」と思う事があるやもしれません。
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自己喪失になりそうな場面で、それでも自己を失わずにいられたご縁の一つが、
:毎日髭を剃って、身支度を調えていた
という事が報告されています。
エトス・エートスとは何かという意味と、エトスによって培われる力を読み解けば、これは「なるほどなあ。」と把握出来ます。
これが全てではありませんが、毎日きちんと身なりを整えるという行為様式によって、自己を喪失せずにいられたという事は、否定も出来ないだろうと私は頂いております。
エトス・エートスとは、このように色々な事例を通して観ると、改めて
:拠(よりどころ)となる力、礎を築く力
がある概念であるなあ、と、思う次第であります。
私は以前「ロゴスとパトスとエトス(エートス)をバランス良く」と言っておきながら、ここまで話して見て、このお堂(ブログ)ではエトスに偏重している気がしてきました。
でも、その自覚があっても、やはりエトス(エートス)の力は侮れないし、生きる力となる作用もありますから、重点を置いております。
エトス(エートス)によって、宗教が形成されたり、エトス(エートス)で宗教的な繋がりも生まれてきたという歴史もありますから、エトスを軸にして宗教の成り立ちを読み解いていくのも、興味深い歴史の辿り方であると私は思うのです。
バランス良く学ぶ事を意識しつつも、順序としては、まずはエトス(エートス)とは何かという事から学ぶのが良いのではないか、そのように思う今日この頃であります。
合掌