会釈の意味

有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。

あなたは「会釈(えしゃく)」という言葉を聞くと、どのような場面や姿を思い浮かべられるでしょうか。
360834 会釈と言えば、ビジネスマナー研修・新人研修などで、お辞儀の角度と共に教えられる、挨拶の形の一つではないかとお見受け致します。



「挨拶」も仏教語・仏教用語であり、今回の表題にあげております「会釈」も、実は仏教用語・仏教由来の言葉です。

ビジネスマナーだとか、ビジネス(取引)の現場で使われている言葉には、仏教用語なり仏教由来の言葉が結構ありそうだと思わせて頂けるものであります。

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現代の会釈という言葉の意味

会釈の意味について、仏教用語としての意味を学ぶ前に、まずは現代的な意味を学びなおすところから始めると致しましょう。

もしかしたら、新人研修やビジネスマナー講座を受講していて、「馬鹿にするな、会釈くらい知っているよ」と、思われるかも知れません。

その場合は、復習すると思うて頂いて、お付き合い頂ければ嬉しゅう御座います。



現代社会における会釈とは、
:挨拶の形の一つ、軽いお辞儀
という意味で、覚えている人も多いかと存じます。



よく見聞きするビジネスマナー研修やセミナーでは、「一番軽いお辞儀、挨拶」と解説するセミナー講師もいるようです。

ビジネスマナーにおいて、会釈はどうやら一番軽いお辞儀という意味や概念でまとめられております。



会釈のやり方、お辞儀の角度と共に教えられる事と言えば、「敬礼」「最敬礼」でありましょう。



一般的に言われているのが、「会釈15度、敬礼30度、最敬礼45度」というお辞儀の角度です。

また、場面や相対する人によっても、会釈から最敬礼までを使い分けられるように、教えられます。



このように、敬礼や最敬礼と共に学んでみた事から、会釈とは「軽いお辞儀、軽めの挨拶」というのが、現代的な会釈の意味と捉えられます。
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会釈の意味は、ビジネスマナーにおいては「軽い挨拶、軽い御辞儀」

現代的な意味の会釈は、ビジネスマナー講習なりセミナーで教えられるのが、「軽い挨拶、軽いお辞儀」であり、角度や姿勢であります。

ただ、いくら軽めだからといって、あまりにもぞんざいなやり方やお辞儀の仕方では、会釈にはならないとも教えられます。



例えば、道を歩いていて、たまたまた上司なり先輩とすれ違う時、歩きながら会釈をするのは、ビジネスマナーとしてはやってはいけないこと、現代風に言えば「NG」とのことです。

このような場面では、「きちんと立ち止まって、会釈をする」事です。

すれ違い様に、歩きながら「ちーっす」と、首だけちょこっと下げる程度ではいかん、と言うのがビジネスマナーだそうです。

私も、随分とこのような「会釈」をしてしまっておったから、これは戒めておいた方が無難であろうな、と思うところが御座います。

かといって、それだけで「けしからん!」と、激怒された場合、激怒した相手も己を観察して、「瞋恚・怒り」の煩悩に気づいて己を調えるべきではありましょうがね。



歩きながら軽んじた会釈ではなく、しっかり立ち止まって挨拶をする、と言う事は、仏教的・禅的にも理に適っていると、私は味わいを頂いております。



仏教、禅においては、ながら作業を戒める教えがありまして、歩くときは歩く、挨拶するときはきちんと挨拶をする、という事が大切です。

形だけの挨拶ではなく、相手を慮り尊ぶパトス(精神性)を育み、大切にした上での会釈を心がければ、自ずと足が止まり、頭も下がるだろうと、私は頂いております。



鋭い人でしたら、「足を止めて頭を下げる」ではなく、「足が止まり頭が下がる」という言い回しに、ピンとくるかと存じます。
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現代的な会釈と関連して、合掌礼拝の作法をお伝え致します

会釈の意味と仕方や、お辞儀の角度について話を致しましたから、ここで仏教の作法、礼拝の作法や仕方もお伝えしておきます。

私は浄土宗で習い、浄土宗の様式による礼拝ですから、その点は予め申し上げておきます。



今回は、仏教・浄土宗における礼拝の内、「会釈」と関わりがありそうな礼拝の仕方や作法として、「下礼(げらい)」について申し上げます。



「下礼」は、正座か立ったままの姿勢で行う礼拝の作法・仕方であり、お辞儀の角度によって呼び方も違います。

現代のビジネスマナーで説かれる、会釈と似ているのが、「浅揖(せんゆう)」という礼拝の仕方です。



「揖(ゆう)」とは、両手を胸の前で組み合わせて礼をする作法で、中国の礼の一つだそうです。

両手を旨の前で組み合わせる、というのは、今回の話においては、合掌のことです。



そして、字面から分かる通り「浅揖」は、浅くお辞儀をする事であり、この角度が会釈と同じく、15度くらいです。

浄土宗においては、御経を一つ読むたび、この浅揖を致します。



また、ビジネスマナーとして教えられる「最敬礼」と同じ、45度上体を前に倒すのが、「深揖(じんゆう)」です。



今後、社葬なり葬儀・葬式に出席されることもあるでしょうから、礼拝の仕方や意味を覚えていくのも、教養や作法を身につけるという意味においても、意義があるかと存じます。
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会釈の意味:仏教用語

現代の「会釈」という言葉の意味と仕方について学んだところで、今度は仏教用語としての意味を共に頂く事に致しましょう。



仏教において「会釈」とは、
:和会通釈(わえつうしゃく)
という言葉を省略したものである、と説かれる事も御座います。



釈尊(お釈迦様・ゴーダマブッダ)は、「対機説法(たいきせっぽう)」といって、個々に合わせて仏法を説かれました。

対機説法は「応病与薬(おうびょうよやく)」とも説明されることがあり、時と場合、そしてその人の苦によっては、別の人に説いたこととは真逆の事を説かれる事も御座います。



わかりやすく言うならば、「急がば回れ」と「善は急げ」や、「二度あることは三度ある」と「三度目の正直」を、誰にどのような時節でどのように説くか、という事を考えて頂ければ、わかりやすいかと存じます。

わかりにくかったり混乱させてしまったならば、申し訳ありません、私の例え方が下手である事によるものであります。



とにもかくにも、このように仏法は矛盾した事も内包しており、幅が広いものです。

ゆえに、それら仏法・仏説の相違点を掘り下げ、根本なり真意・真義を明らかにしていくこと「和会通釈」と言います。

それが「和会」もしくは「会釈」と、省略されて言われるようになった、というさすらいが御座います。



「和会」も「会釈」も、表面的にだけ捉えると矛盾しているような事柄を、真意・意義が通じるように解釈していくことです。

このように、仏教用語として「会釈」を学び直すと、挨拶の最も軽い形という現代的な意味とは、また違った意味と味わいを、頂けるかと存じます。



そして、現代の「軽い挨拶」という意味にさすらったのは、この「意義が通じる」の「通じる」という事があるからではないか、と私は考えております。

お互いに、ペコっと頭を下げたり、ちょっと立ち止まって会釈をする事で、お互いの存在を確認し合い通じ合う、そのような事を考えれば、なんだか今の意味にさすらったのも、わかる気が致します。

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現代的な意味としても仏教の意味としても会釈を大切にしたい

「会釈」の意味は、私は仏教用語としての意味も、現代的な「挨拶の形」としての意味も、どちらも大切にしたい、そのように味わっております。

現代社会においては、都会では特に「挨拶をしない人が増えた」なんて言われる事が御座います。

その事から、「最近の若いもんは、挨拶も出来んのか、会釈すら出来ん。」という小言もありそうなものです。



ただ、都会で挨拶の風習が影を潜めるようになったという歴史は、少なくとも明治時代にはあったかもしれない、そのような話が御座います。



これは、お坊さんから頂いた話ですが、正岡子規という歌人が、故郷の四国の松山から上京、つまり東京へ赴いたときの事を綴った言葉に、その一端が垣間見られます。

正岡子規さんの随筆・随想録「筆まかせ」に、このような記述が御座います。

我レ彼レを知るも彼レ我レを知らざる時ハ彼に礼をなすも無効なり

これは、「良く見知った顔ぶれでも、あまり知らないような人でも、礼をなしても(つまり挨拶をする、会釈をする)、反応が無い。」という意味です。

都会に出たときに、地元松山では道行く人に挨拶をすると、知り合いであろうが知らない人であろうが、返してくれたけれども、東京では挨拶が無効、会釈をしても帰って来なかった、という解説が成される、正岡子規さんの文章です。



もしかしたら、国語の教科書で習った人や、正岡子規さんの詩に詳しい国語の先生から、一つのエピソードとして教わった人もいらっしゃるやもしれませんね。



今の時代、誰彼構わず会釈をすると、妙な顔をされそうな気が致しますし、何となく素通りしたくなる人もいらっしゃるでしょう。

しかしそれは、明治時代にはそのような光景も見られたであろう事が、正岡子規さんの「筆任せ」から、読み取る事が出来ます。

その時代を見たわけではありませんから、確実な事は言えませんが、都会のせわしなさを想像するに、可能性としては大いにあると、私は頂いております。



現代社会においては、挨拶を子供に教えるであろうはずの大人でも、ろくに出来ない、現代的な意味での会釈すらしない人もいらっしゃいます。

私の学生時代には、こちらが挨拶をしても、全然してくれない先生もいらっしゃいました。

現代だから、都会だから、という言い訳をする前に、今回の表題である「会釈」について、意味や仕方を学んだこの機会に、今一度、会釈について考え直してみては如何でしょうか、と提言致します。



仏教用語としての「会釈」は、根本や真義の解釈を通じるようにする、という意味があり、こちらの意味も大切にしたいものです。

そして、お互いが通じ合うように、お互いが物事の解釈を話し合うと言う事は、まさに「和会通釈」のことであります。



その上で、挨拶をするという意味での「解釈」も大切にしたい、その事で更にお互いが通じ合う機会が増えていく、そのような味わいを頂く私で御座います。



尚、ビジネスマナーと仏教用語については、こちらもご覧頂くと、より理解が深まるかと存じます。

参照:「ビジネスマナーとは何かを学ぶ智慧まとめ」



私は「ビジネス」と「商い・商う」は、ニュアンスが違うと言いますか、概念的に分けて頂いておりますが、まあ、わかりやすくビジネスマナーという言葉を使わせて頂きます。

挨拶としての会釈と共に、仏教用語として「真義に通じる、真義が通じるように」という事も、人と仕事をする上では大切な事だと思われます。

仕事をする上で役立つ考え方としてお育て頂けましたら、嬉しゅう御座います。



合掌

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