縁起物あれこれ|動物と達磨の置物

有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。

あなたは、「縁起物(えんぎもの)」というと、どんな物をあげられるでしょうか?
106768 縁起物と言えば、結婚式の引き出物や、何かの祈願成就のために用いられることがしばしば御座います。

この縁起物というのは、良いご縁を引き寄せたいという思いが反映されて、色々と発展してきた日本の文化のようにも思えます。



「縁起」「ご縁」については、吉兆や善し悪しを占ったり決定づけたりする言葉では無いと言う事は、以前にお話し致しました通りです。

その事とも関連して、今回は二つの代表的な縁起物について、私なりと言いますか、私が個別に考えている事や思う事をお伝え致します。

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縁起物の文化それ自体は私も尊いと思う

最初にお断りしておきますが、結婚式の引き出物として縁起物は何が良いのか、とか、今あなたに関連する事柄に対して吉となる縁起物を探してこちらにいらっしゃったなら、申し訳ありません。

今回は、そのような情報をお伝えする話ではありませんので、ご注意をば。

今でしたら「何々にはこの縁起物」という情報については、Wikipediaやその他の情報源に、簡潔にまとめられております。



そのお断りをした上で。



「縁起物」の意味・定義は、
:良い事がありますように、という祈ったり祝う品物
のことです。

ようするに、願掛けの一種ですね。



仏教の話を致しますと、基本的には仏教においては、お願い事をすることはありません。

最近は写経会・写仏会の時、写経で用いた紙の最後に願い事を書く風習もあり、その成就を祈願するという催しも御座いますし、「願以此功徳」という言葉もあるにはあります。

ただ、ここで用いられる「願以此功徳」の「願」は、阿弥陀仏の本願であると、つい先日、西本願寺の御法話で教えて頂きました。

我々が「我」によって願うのではなく、阿弥陀仏が功徳を届けて下さっている、という頂き方ですね。

このような話もあり、願い事をするという事は、御仏に請求書を一方的に押しつける行為という見方もあると、私は考えております。

故に、縁起物について「縁起」を仏教語・仏教用語としての意味や概念と合わせて考えると、吉凶を占ったり神頼み的な要素があるために、私はあまり用いる事は御座いません。



ただ、一方で全否定もしておりません。



例えば、縁起物が用いられる代表的な例は、結婚式などの冠婚葬祭です。

「相手を慮る、縁起の良い物を贈りたい。」という思いを持たれることはあるでしょう。

それを形として表すために、縁起物と呼ばれる品物を相手に贈るというのは、私は大切にしていきたい精神性であり、それを形にしたエトス(行為様式)だと味わっております。



私も、そういうエトスを観て育ってきていることもあり、全部を否定する事はしませんし、私もそのような思いを持ってはおります。

実際、仏教と再会する前の話ですが、入院中の友人に蛙の置物や犬の置物を贈ろうか、なんて考えた事ありましたからね。



神仏習合や神道の吉凶に関する精神性が根強いと思われる日本において、縁起物を贈る風習というのは、文化的・精神的な意味において、これはこれで尊いと私は頂いております。
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縁起物に縛られないように注意する

縁起物のエトス(行為様式・風習)やパトス(精神性)については、私は一方では尊いものであると感じております。

ただ、それが行き過ぎたりする事や盲信することには、注意を呼びかけます。



例えば、受験シーズンになると見聞きするのが、「勝つ」という事で「とんかつ」を受験日前日に食べる、もしくは朝食や昼食にする、という風習です。

あれは、受験を吉として終える事が出来るように、という語呂合わせによる願掛けですね。



では、とんかつを食べたら必ず合格できるのか、というと、そんな事はありません。

勝負事でしたら、その勝負事に関わる全ての人が縁起物で願掛けをしても、縁起物によって良いご縁が結ばれる人とそうでない人、つまり勝つ人と負ける人が出て来ます。

そうなった場合、「折角縁起物を使ったのに、役立たず!」と、その縁起物に責任をなすりつけて、八つ当たりするのでしょうか?

そもそも、勝つとか負けるとか、縁起物に責任があるのでしょうか?



また、縁起物は数量が多ければ良いと言う物でもありません。

「受験にはとんかつだ!」と言って、とんかつを食べ過ぎて体調を崩し、受験できませんでした、なんてことがあったら本末転倒です。



このように、縁起物の文化や精神性そのものは尊いけれども、それに縛られて、本来為すべき事を見失うことは避けたいものです。



このような話を踏まえた上で、現在、縁起物として有名な二つの置物について、私は思うところが御座います。
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縁起物について思う事:達磨

縁起物の代表格と言えば、祈願成就した際に目を塗るという用いられ方がする、達磨(だるま)があります。

上でとんかつの話をしましたから、もしかしたら「串かつだるま」を連想した人もいらっしゃるかもしれません。



最近はカラフルな達磨(だるま)も沢山あるようで、最近はキャラクターものの達磨もありますね。

最近見かけたのでしたら、となりのトトロや「どーもくん」のがあり、個人的にインテリア・飾り物としてどーもくんの達磨の置物っていいかも、なんて思うたりしております。

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私の感性においては、そこはかとなく愛らしさを感じます。



この達磨(だるま)の置物は、合格祈願や何かの勝負事で勝利するための縁起物として、用いられることがしばしばあります。

よく見かけるのは、選挙で当選した時に、この達磨の目を黒く塗るという、一種の儀式ですね。

もちろん、どーもくん達磨ではそれは出来ませんから、大抵はこういう達磨(だるま)の置物を使います。

選挙や大きな行事では、これよりもっと大きな達磨が用いられるでしょうけれども。



祈願成就のために達磨を設置して、成就したら目を入れるという儀式は、それはそれで一つの催しや文化としてあると理解しておりますが、一方で私はこんな事を考えております。



この置物である達磨(だるま)さんについて、起源をご存じでしょうか?

禅仏教をご存じでしたら、「面壁九年の坐禅」をされた、達磨大師の伝説を模したものである、という話もご存じではないかと思います。

壁に向かって9年間坐禅をして、手足が腐ってとれてしまった、という伝説です。



この達磨大師の伝説をモチーフ(模す、参考にする)にした縁起物としての達磨について、私は思う事があるのです。



達磨大師がおわしました時代、武帝という人がいて、この人は仏教徒であり、仏教の発展にもの凄く寄与されました。

そこで、達磨大師が武帝の国に来られたと言う事で、武帝は達磨大師を訪ねて、
「私はこれだけ仏教に寄与致しました。私にはどんな功徳が御座いますか?」
と、尋ねられたそうです。

これだけ仏教に増資が深くて、寄与も沢山したんだから、褒めて貰えると思われたのでしょう、ありませんか、あなたにも武帝のような心の動きって。

でも、達磨大師は一言
「無功徳(むくどく)」
と仰いました。

つまり「功徳なんぞありゃせんよ(功徳など無い)」と、ぴしゃりと言い放たれたのです。



「無功徳」は、今では有名な禅語であり、この後の武帝と達磨大師のやり取りで放たれる達磨大師の言葉も、禅語として有名です。

この「無功徳」の話があるために、私は達磨(だるま)が祈願成就や功徳のための縁起物として用いられていることに、私は違和感を持っております。

「無功徳」と言い放つ達磨大師ですが、それが現代では功徳を期待したり、功徳を得たときに達磨の置物を縁起物として用いるとは、さすらいの不思議さを感じるところで御座います。



私としては、もしも達磨(だるま)の置物を縁起物として用いているならば、「今、目先の功徳を求めすぎていないか」という反省のために置いておきたい、そんな事を考えております。

動物の縁起物:狸の置物

00e0558f7fea19dcb745beae3bffd994_s 縁起物というと、動物も縁起物として用いられる事が御座います。

そのなかでも有名な動物の縁起物に「狸の置物」がありますね。

実家が商いだったこともありまして、商いの店、商売をしている家や店によくある置物である、狸の置物がうちにも御座いました。



私は、あの狸の置物って、たんにインテリアとして飾ってあるだけかと思っていたのですが、実は縁起物としての意味があったのです。



それは、
:他を抜く
という意味です。

「他を抜く」というのは、つまり他社・他者との競争をする際に、抜き去るという意味ですね。



確かに、商うこと、現代風に言えばビジネスは競争社会でありますから、その意味はわかります。

ただ、最近は本当に「他者を出し抜く」という在り方が前面に出すぎているという事も、一方で感じます。

現在は、それが行き過ぎて「他者を出し抜いて蹴落とす」なんて事までやってしまう輩も多くなっているのでは無いでしょうか。

「他を抜く」とは、そのような意味も現在は含まれているような、そんな気が致します。



私は商う事、ビジネスは「自利利他円満」であるのが望ましい、という考えが御座います。

この辺り、真宗・浄土真宗の教えを大切に守りながら商っている「近江商人」の理念に、習う事が出来ます。

近江商人は「売り手良し、買い手良し、世間良し」の理念と共に、自利利他円満の商いをされています。

結果的に利益や規模の数量が「他を抜く」ことはあっても、あくまでも売り手と買い手、そして世間・社会に貢献する事を大切に育んでいるというのが、前提としてあるのです。

他を抜くか他に抜かれるか、というのは、あくまで結果論です。

「他を出し抜いてやる」という、自己中心的な在り方が第一義としてあるのでは無く、近江商人の理念のような在り方を第一義として、商い・ビジネスをしたいものです。



狸の置物という縁起物は、これも達磨(だるま)の置物と同じく、反省や自己を省みる「脚下照顧(きゃっかしょうこ)」のために用いたいというのは理想的だと思うのですが、如何でしょうか。



尚、「縁起」についても、一度学んで頂くと、今回の話をより深めるきっかけになるかと思います。

参照1:「縁の意味を英語で学ぶ」

参照2:「縁起のいい日と言うけれど」

縁起物は、吉凶の占いとしてではなく、自己を省みるために用いたいと思う私であります。

合掌

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