有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。
前回は、「気にしないで」と他人を励ますことの危険性と傲慢さと共に、「気にする性質を持つあなたは悪くない」という事を、お伝え致しました。
気にしないで、とか、気にするな忘れろ、と言われても、内側からふつふつと「気になる」が沸き起こってくるのですから、それを滅するのはかなりのエネルギーを要します。
仏教には、それを行う修行なり教義がありますけれども、仏教に馴染みが無い人でしたら、いきなりそれをやりなさいと言われても、難しい事も御座いましょう。
ただ、「仏教にも、その他の世界にも、こういう練習方法や訓練、修行がありますよ」と言う事を知っておくだけでも、気持ちに余裕も生じるかと存じます。
今回は、前回の話と密接に関連する、「気にしない方法」や「気にしない練習」という概念について、話を進めていくことと致します。
注意して欲しいのは、単に「この気にしない方法や練習、修行をやりなさい」という話ではありませんからね、一つの方法論と、それを無理してやったり、囚われないでよいのですよ、という話であるということです。
今回の話も、気にする性格で悩んでいたり、気にする性質を直したいと言う苦を抱える人の癒しなり進める道を照らすヒントとなれましたら、嬉しゅう御座います。
世の中に、気にしない方法や練習の本なりセミナーはあるけれど・・・
巷を見渡してみると、本屋でもインターネット上でも、「気にしない方法」なり「気にしない練習」にまつわる本や情報が、多数存在している事に気がつきます。最近でしたら、自己啓発系のビジネスや自己啓発セミナー、インターネットビジネス関連の講師なり自称コンサルタントの中にも、「気にしないで」とか「割り切って」という言葉を、考え無しにぶつけてくる輩がおります。
そんなに簡単に気にしないでいられないし、簡単に割り切れないから悩みであり苦であるのだ、というのに、なんとも無神経な事を言ってくれるものです。
本屋にいくと、気にしない方法や練習のやり方が書かれているものが、自己啓発コーナーやビジネス書コーナーに積み上がっております。
確かに、ペラペラとめくって立ち読みする程度には、参考になる事も書いてあるかもしれません。
ああいう類いの本は、もっともらしい事や、当たり障り無い事、また過去にすでに出回っている智慧を、さも新しい言葉や概念のような言い回しで、ありがたがって貰えるように書いてありますからね。
免疫が無い人は、ころっといきます。
更に厄介な事は、「私にも出来た、あなたにも出来ます」とか、一般論化した言い回しや、押しつけがましさがあるというところです。
これって、出来ない人は悪いとか、出来が悪い人だとか、仰りたいのでしょうか。
いわゆる「ディスる」というわけではありませんが、某高額個別指導トレーニングジムのCMで、役者が「私にも出来た、あなたにも出来る」と言わされていますけれども、あのCMは仏教者としてはどうかと思うております。
「自分が出来る事は他人も出来ると、勝手に決めつけなさんな」と、それは他者意識が欠如した傲慢さであろうと。
そういったことに気づいた途端に、自己啓発本やビジネス書の薄っぺらさに気づく人もいらっしゃることでありましょう。
薄っぺらいと言いますか、薄めすぎと言いますか。
確かに、本やセミナーで伝えられている「気にしない方法」や「気にしない練習」が、あなたにどんぴしゃりと当てはまるならば、それはそれで宜しいことです。
しかし、それらの方法論は、万人に当てはまったり、必ずしもあなたに適した方法論が書いてあるわけではありません。
あくまでも、その自己啓発本なりビジネス書の作者に効果があったであろう、気にしない方法や練習に過ぎないのです。
完全否定はしませんが、最初はあくまで「こういう方法もあるのか、まあ、試して見るか」くらいの塩梅で、付き合った方が宜しいでしょう。
まずは、その事を問い、気づいておくことが大切です。

気にしない方法や気にしない練習を気にするよりも、仏教の智慧か専門の機関へ
世の中には、気にしない方法や気にしない練習といった内容が書かれている自己啓発本やビジネス書の類いが、本屋に行けば沢山見つかります。前回も少し触れたように、確かにそれらの方法は、参考になる事もありましょうが、どうしたって内側からふつふつと沸いてくる自然(じねん)な感覚・感性を、完全にコントロール出来るわけでは御座いません。
むしろ、それを何とかしようと無理する事によって、具合が悪いことにもなります。
特に、病的な場合、私のようにうつ病である状態だったり、強迫性障害などの場合は、専門の医療機関などで相談した方が宜しいことで御座いましょう。
付け焼き刃の自己啓発本は、火傷して痛みを増幅するだけです。
自己啓発セミナーの講師や、コンサルタントやコーチングを自称する我利我利亡者なり詐欺師共は、その辺りは全く分かっておらず、あなたからお金を取れればそれでよし、という亡者ですので、注意しないと行けません。
もしも、ご自身が「もしかして、神経質すぎるのは精神的な病かな」と自覚されたら、まずは専門の医療機関に相談されると善いかと思われます。
それを踏まえた上で、病的ではなくて行動認知療法とまではいかなくても、気になる性格であったり、気にする性質が強いと思い悩む人も、いらっしゃる事で御座いましょう。
恐らくは、この文章をお読みの方は、そのような悩み・苦の解脱方法を知りたくて、「気にしない方法」を探してここに辿り着いて下さったものかと存じます。
次は、あくまで私がうつ病なり心療内科のお世話になった経験を経て、仏教を学び続けている仏教者・宗教者としての経験則や学んだ事、実践している事などを踏まえて、こういう方法や練習・修行もありますよ、という参考資料として、二つだけお伝えしておきます。
あくまで、私にはこういう作用があった、ということで受け取って頂ければと思います。
誰にでも、絶対に効果があって作用する、という事ではありませんから、その辺りは冷静にお読み頂けましたら、幸いです。
ただ、それでも、仏教は、人の苦、忍土を生きる人間の苦を抜く「抜苦与楽(ばっくよらく)」「応病与薬(おうびょうよやく)」が基軸としてあります。
2500年程の歴史で培われた仏教・仏法は、薄められた自己啓発よりは、妙薬となり得るのではないかと存じます。
仏教的気にしない方法1:「気にしない事は難しい」と諦める(明らかにする)
仏教・仏法の智慧をお借りした、気にしない方法と練習の一つ目は、:気にしない事は難しい、と諦める事
です。
いきなり諦めるとは、身も蓋もないことを言う奴だ、と思われるかも知れません。
しかし、ここは仏教・仏道の教えという事で、読み解いていく必要が御座います。
仏教が説く「諦める」は「明らかにする」という意味ですから、この場合は、まずは次のことに気づく事が大切です。
それは、「自分は気にする性質である、気にしやすい性格である」という事を、諦める(明らかにする)事により、きちんと気づく事です。
そして、「気にするという事は、内側からどうしてもふつふつとマグマのように沸いてくる現象であり、無理に抑えたり無くしたりすることは難しい」という事を、諦めるのです。
もちろん、度合い・グラデーション(濃淡)はあるでしょうけれども、気にしすぎる性格などで悩んでいる人は、このような「どうしようもない内側からのわき起こり」があるのではないかと存じます。
私にも強くある現象ですから、私はこのように言語化するところに到っております。
内側から自然(じねん)に、自分の意思とは関係無く沸き上がってくるのですから、難しいのも頷けます。
それを「そんなの難しくない、何が難しいんだ」という輩の言う事こそ、気にしないで宜しいのです。
実際に私はそれをやられたことがあり、怒りなどの情念を継ぐ、つまり「二念を継ぐ」をやってしまったことがあるのですがね、これは教訓として頂いておる次第であります。
この「二念を継ぐ」も、気にしない方法を練習する際に、大切に学ぶべき事柄です。
気になる事が沸き上がって、それに念を継ぐから、「気にする」になります。
自動詞から他動詞への変換ですね。
逆を言えば、自己の「気になる」を諦める事で受け止めてから受け容れる事により、「気にする」に行かなくて済みます。
まずは、自己の「気にする」から「気になる」に行く前に、諦める事で観察眼を養い、気づく事。
これが、仏教的な智慧「観察(かんざつ)」を取り入れた、気にしない方法を練習する智慧です。

仏教的気にしない方法2:なぜ気になる、気にするかを徹底して問うて深掘りする
仏教の智慧をお借りした、気にしない方法と練習の二つ目は、:気になる・気にするを徹底して問い続けて深掘りする
です。
これは、幾人かのお坊さんから伺った仏道の歩み方であったり、仏教との関わり方を教わったときに頂いた事柄を、「気にしない方法・気にしない練習」に応用したものです。
気にしやすい人、気にしすぎる性格なり性質の人は、どうしたって内側からふつふつと、「気になる気になる・・・」と、沸いて出てくるものです。
蓋をしたり、見ないようにしても、ふつふつと自然に沸いて出てくるのですから、苦しいことでありましょう。
責められたり、騙されたりしたとき、憎しみや怒りのマグマがいつまでも煮えており、なかなか気にしないでいられない、という経験もある人もいらっしゃるかもしれません。
そんな精神状態の時に「気にしないで」「気にすんな」とか、ちょっと水を掛けられたところで、収まりようがありますまい。
火に油ってやつです。
酷い場合には、「気にしないでよ、そもそも自己責任じゃないか」なんて言ってくる輩さえおります。
そんな物言いをする他者意識や他者配慮に欠けた輩の言う事こそ、気にしないで結構。
もっとも、そう言われたことも「気になるリスト」に入りそうな気が致しますが。
仏教は「気づく事」「問いを立てる」という事を教えてくれる、と、お坊さんの御法話で頂いた事が御座います。
ここで、その仏教の智慧を借りますと、
:なぜ気になるのか、気にするのか、を問い続けて深掘りしてみる
というのが、気にしない練習方法です。
気にしないのではなく、いっそのこと徹底して気にしまくる、という方法です。
こういった、「気にしない方法を練習したいのに、全く違う事や全然違う価値体系から逆方向の提言や方法」は、仏教に限らず、宗教の醍醐味であるいう味わいを頂いております。
私も実際にやったことがありますが、あくまで私が経験した作用としては、次の二つが御座います。
一つ目の作用は、どんどんと問いを立てていく、深掘りしていくと、段々疲れてきます。
そして、「あーもー、しんどい。考えるのやめた。」と、気にすることを投げ出すときがあります。
考えても答えが出ない場合は、「気にしたところで答えが出ない」という事に気づき、その事が明らかにされます。
もう一つの作用は、徹底して問い続ける事により、気にしていたことの解決策に到達する事も御座います。
そうなれば、もう気にする必要の無いことになりますから、これまた解決されたに等しい事でありましょう。
気になるのであれば、気にするならば、いっそのこと徹底的に問い続けて深掘りしていく。
これは、思考力や考える力も養われ、更に気にしていたことの解決策にも到達する可能性が高まる、仏教の妙薬ではないか、そのようにお伝え出来る事柄で御座います。

気にしない方法や練習はあるが、無理に練習しなくていい
今回は、気にしない方法やその練習について、仏教の智慧と共にお伝え致しました。仏教の智慧を借りた、気にしない方法や気にしない練習の具体的な事例は、二つほどお伝えしましたが、これは無理してやる必要は御座いません。
もしも、ご自身が「病的かも知れない」という自覚を持たれたら、まずは専門の機関に行った方が宜しいでしょう。
その上で、病的では無いけれども、やっぱり気になる度合いが強いと思われたときに、試して見られるくらいの塩梅が、丁度良いかと存じます。
原始仏教僧侶の小池龍之介さんも、本では「精神疾患であったり、現在病を抱えている人には、副作用的な事も生じかねませんからご注意を」という、注意勧告をして下さっています。
参照:「小池龍之介さんの情報まとめ」
参照2:「小池龍之介さんの本で私が選ぶ3冊」
気にしない方法、気にしない練習を二つ伝えはしましたが、何度も申し上げるように、無理に行う必要は御座いません。
無理して悪化させる方が具合が悪いでしょうから、まずは自信の状態や心の有り様を、きちんと知る事から始められると良いかと思います。
尚、今回少し触れた、自己啓発セミナーや自己啓発本の危険性と使い方は、こちらで記しておりますから、引っかからないための智慧として、参照して頂けましたらと思います。
参照:「自己啓発本のおすすめやランキングは鵜呑みにしない」
参照2:「自己啓発本の使い方2つの例」
参照3:「自己啓発とは|関連情報まとめ」
自己啓発セミナーの危険性は、こちらです。
参照:「自己啓発のセミナー危険な実態|大阪での体験談」
参照2:「自己啓発セミナーの断り方の実例」
参照3:「自己啓発セミナーに洗脳と搾取をされない智慧」
自己啓発本や、自己啓発セミナー講師の「気にしないで」は、「俺にお金を出すことをためらうことを気にしないで」という意味です。
洗脳されないように、マインドコントロールされないように、冷静に観察(かんざつ)して気づくことが大切であり、時には問いを立てまくると宜しいかと存じます。
そして、今回の話と合わせて、こちらもお読み頂けましたら、気にしすぎで悩んでいたり、苦を感じている現状から、光を見出すヒントを得て頂く一助となるかと存じます。
参照:「「気にしないで」の傲慢さ|英語と仏教から学ぶとよくわかる」
参照2:「嫌なことを忘れる方法の真実|仏教の智慧とエトスの力」
あなたが、ご自身を受け止めて受け容れ、苦が少しでも和らぐことで、「抜楽与楽・応病与薬」の智慧となれましたら、大変嬉しゅう御座います。
そして願わくば、「気にしないで」と言われる痛みを知っていらっしゃるならば、それを他者に強要しないという戒を律する事も、念頭に置いて頂ければ幸いであります。
合掌