有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。
あなたは「縁起(えんぎ)」という言葉を見聞きすると、どのような事を思われますか?
巷ではよく「今日は縁起のいい日だな」「結婚には大安吉日が縁起のいい日だ」など、何かの善し悪しや吉凶についての言葉であるとように使われます。
験担ぎと言いますか、占いが好きな人にとって、縁起という言葉は吉凶や運勢の善し悪しを左右する意味として捉えられているかもしれませんね。
「縁起(えんぎ)」は、ご縁についての表題で、少し触れた事が御座います。
今回は改めて、仏教語・仏教用語としての「縁起」について意味や概念を学び、「縁起のいい日」という考え方を再考するきっかけとしとう御座います。
仏教語・仏教用語としての縁起の意味
「今日は縁起のいい日だねえ」なんていいますけれども、そもそも縁起とはどのような意味でしょう。縁起は、仏教語・仏教用語においては、
:因縁生起(いんねんしょうき)
の略語として説かれております。
この「因縁生起」の意味は、
「他との関わり合いが縁となり、全ての事象・事柄が起こる」
です。
物事・事象が起こる事に対しての、原因と結果、その原因が結果となるに到る間に作用するにはなんらかの縁がある、ということです。
私は、仏教者と自覚させて頂く以前から、この「縁起」や「ご縁」の意味や概念を、とても大切にしておりました。
ゆえに、原因と結果について、「因果」というたりしますが、私は「因縁果」という言い方をしばしばしております。
因と果の間には、何らかの縁が絡み合う、関係し合うという事を見逃せなかったものでして、そのような言葉への拘りを持つようになりました。
仏教においては、拘りは時として執着になり、それが慢の煩悩に暴走したり致しますから、この辺りは注意せんといかんのですがね。
少なくとも私は、「縁起」という言葉の意味や、それにまつわる味わいは、このように頂いております。

縁起のいい日とか、縁起に良いも悪いもない
この仏教語・仏教用語としての「縁起」の意味と概念を踏まえた上で。このような意味を学ぶと、「縁起のいい日」とか、「縁起でもない」という言われ方に、違和感を持つようになる人もいらっしゃるのではないかと存じます。
「縁起」には、「一切は縁より起こる」という思想と意味が御座います。
これは、運勢や善し悪しを占うという意味では御座いません。
そもそもとして私は、「縁起」に良いだの悪いだの、そのような頂き方はしておりません。
私は便宜上「悪縁」とか「善因善果」という禅語を用いる事がありますが、それは話し相手に受け取りやすい形に調えている言葉で、いわば方便です。
確かに、占いが好きであったり、神仏なり人智の計り知れない事柄に対する畏怖として、「縁起のいい日」とか、「縁起でもない」という言い方をするのも、一方では理解しております。
ただ、それに引っ張られすぎて、やれ縁起のいい日だの、やれ今日は縁起が悪いから何もしたく無いだのと、そのように「縁起」という言葉を使われるのは、違和感を覚えるところであります。
縁起でもない、なんてことはない
縁起は、植物を例に取るとわかりやすいでしょう。僧侶の方にも、縁起という言葉の意味や用法、概念について、植物の成り立ちを例にしてわかりやすく解説して下さる人が幾人かいらっしゃいます。
私が触れた場合ですと、臨済宗の僧侶であられる松原泰道さんや、浄土真宗本願寺派僧侶の辻本敬順さんが、本で植物の例を用いて、縁起を解説して下さっています。
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私、西瓜が好きで夏にはしゃくしゃくと食べるので、西瓜の例でご勘弁下さいまし。
西瓜の種は、机の上に放置してあったり、焼却処分してしまったら、西瓜の実にはなりません。
そこで、「適切な季節に土に埋める」「肥料をまく」「水をまく」「太陽光を浴びる」等々、ありとあらゆる条件なりきっかけによって、実になっていきます。
このあらゆる条件やきっかけが「縁」であります。
そして、西瓜の実になる果についても、甘い西瓜になるか甘くない西瓜になるかという「果」は、温度調整や水のまき具合によって変わってきます。
更に言うなれば、その「西瓜の実」という果が、今度は次の西瓜の実の「因」になり、ここにまた「縁」が折り重なって・・・と、続いていくのです。
西瓜の実になる、という果に到るまで、どのような縁が因と結びついてそうなっていくのかは、言い始めたらもの凄く広がっていきます。
縁起というのは、スケールが大きく、かつ連続性のある意味・概念である、私はそのように味わっております。
突き詰めれば、人智を超えるくらいに。
西瓜一つ実がなるということだけでも、様々なご縁なり縁起が背景にはあるのだと、私には思えるのです。
このことを踏まえると、よく「縁起でもない」なんていいますけれども、私は「縁起でもない、なんてことはこの娑婆世界にあるのだろうか?」なんて思うたりします。
実は私、この事について考えている時に、東本願寺文庫で、同じ事を考えていらっしゃった僧侶の本に出会いました。
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これを読ませて頂いたとき、私は「おお、まさに」と思うたものであります。
全ての事象は「因縁果」「縁起」を見出されるわけですから、縁起なき事はない、というのが、現段階における私の「縁起」という言葉の意味や概念の味わい方であり、頂き方で御座います。

縁起のいい日に対してこんな昔話と禅語をば
果には因と縁がある、それを「因縁生起(いんねんしょうき)=縁起」と言います。仏教語・仏教用語の縁起とは、吉凶の兆しという意味では無い事は、今回の話で把握して頂けたものかと存じます。
その事から、「縁起のいい日」「縁起の悪い日」というような言い方は、本来的では無いと言う事も、ご理解頂けたのではないでしょうか。
私は、この「縁起のいい日、悪い日」という考え方や在り方に毒されると、それこそ「ご縁」を疎かにしかねない自体にまで陥ると思うております。
その事を示す話として、子供の頃に観た「日本昔ばなし」というアニメーション作品の話なのですが、こんな昔話が御座います。
題名は、確か「縁起かつぎの吉平さん」です、今回の話にもろ直結しますね。
吉平さんという登場人物がおり、大根農家だったと記憶しております。
その吉平さんが、朝、お茶を入れたときの事です。
お茶の中で茶柱が立っており、「今日は縁起のいい日だ」といって、縁起のいい日に畑で種を蒔こうと出かけていきました。
すると、途中で手ぬぐいを落としたらしきお嬢さんに出会い、それを拾って渡してあげると「はばかりさん」と言われました。
「はばかりさん」とは、私の祖母もよく使っていました言葉でしてね、関西でよく使われる言葉で「有難う、恐れ入ります、ご苦労様」という意味があり、感謝の言葉であります。
しかし、お嬢さんからお礼を言われただけなのに、吉平さんは、
「はばかり(葉ばかり)になるなんて、縁起が悪い」
と言い出して、畑仕事をせずに帰ってしまいました。
吉平さん、なかなかおもろい漢字変換能力です。
そして、そんな事が何度かあり、茶柱が立たない日は「縁起の悪い日だ」と言って、畑仕事をしない、という日もたびたびありました。
ついには、茶柱を「立て!立て!」と、無理矢理茶柱を立たせて出かけていく、なんてことがある始末です。
そして、そうしてやっと出かけても、また通りすがりの人との会話で、縁起が悪いと思われる発言を聞いたら、畑仕事をせずに帰ってしまうという吉平さん。
とうとう、大根を収穫する事もなかったのですが、吉平さんが収穫しなかった年は大根が豊作で、吉平さん以外の人はその恩恵を賜った、という話です。
今思えばこの吉平さん、現代でしたら霊感商法にころっと引っかかりまくるような、そんな危険を感じます。
これは極端な例え話ではありますが、縁起の善し悪しに振り回された典型的な例と言えるでしょう。
昔話というのは、しばしば我々の煩悩や悪業、悪い癖を見せつけてくれる教訓が満載に思えます。
このように、縁起のいい日だの悪い日だのと、そのようなことに振り回されないために、覚えて起きたい禅語があります。
この昔話に対する教訓としても覚えておきたい禅語に、
:日々是好日(にちにちこれこうじつ)
が御座います。
どのような日も、雨の日も風の日も晴れの日も、小指を机の角でぶつけた日も、臨時収入を頂いた日も、等しく「好日」である、という事を教えてくれる禅語です。
日々を「これは縁起のいい日」「今日は縁起の悪い日」と、そのような現代的な縁起の意味と概念に振り回されている自覚のある人には、効く言葉ではないでしょうか。
これは私の持論ですが、「縁起のいい日」ではなくて、単に身体の調子がいい日だったり、色々なご縁に助けて頂いている日だと思うようにすれば、振り回されずに済むかも、と私は思います。
日々の事を、縁起・ご縁のせいにするのではなく、調えられていない自己によるものだ、と捉える方が、謙虚で奥ゆかしい気が致します。
尚、今回の「縁起」についての話は、英語で表現するとどうだろうか、と言う事を、「ご縁」のところで話をさせて頂いております。
参照:「縁の意味を英語で学ぶ」
英語で理解する事で、より仏教語・仏教用語としての縁起という言葉の意味を深めるきっかけになれば、幸いに御座います。
合掌