有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。
このお堂(ブログ)では、断捨離についても結構な数、話をしてきております。
私も、下手な自己啓発の概念であったり、自己啓発本を換金するという形で断捨離したという体験も、お伝えしたものです。
私の場合は、「そういえば、あれは断捨離だったな」と、思い返せば断捨離だった、という話ではありますがね。
私は、断捨離をする事そのものが目的だったのでは無く、決別したり断って捨て、離れた結果として、そうであった、というだけの話ですから。
このような事に気づき、更に観察・洞察していくなかで、色々と話を展開していた当時からも、私自身も変遷していきまして、思うところも御座います。
そして、改めて「断捨離」について考えて見ると、もっと根本的な事柄や、注意点なり陥りやすい罠についても、言葉足らず、説明足らずだったかも知れない、そのように思うた次第です。
今回は、これから断捨離を始める人に、知っておいて欲しいことや、根本的な話、土台となる話について、仏教者の視点でお伝え致します。
ここを出発点として、それでも断捨離をする必要に責められた場合は、各々の具体的な方法論に進んで頂ければと存じます。
断捨離そのものに価値や善悪があるわけではないし、ましてや偉いわけでも無い
断捨離は、一時はブームになって、メディアでも色々と取り上げられたものです。確かに、者で溢れかえっているとおぼしき現代社会において、家の中が者でひっくり返っている場合、物質的には断捨離した方が良いと思われる場面も御座います。
汚部屋を断捨離によってすっきりしたら、そこではゲイン、つまり得るものも御座いましょう。
スッキリとした解放感であったり、衛生面で良い影響があったり等。
そのような結果や効果も実感している人の話もあるがゆえに、なんとなく「断捨離=良い事」というイメージが出来上がり、先入観にまでなっている風潮も、私は見出しております。
私も、もう読む事の無い自己啓発本を、綺麗さっぱり断捨離したことで、何となくすがすがしさを感じましたから、感覚感性としてはわかります、そういう感情は。
一方で、私は考え無しに「断捨離は素晴らしい」とは、申し上げません。
もしも、私の過去にお伝えしてきたことから、「断捨離は素晴らしいと、真観が言っている」と思われた方には、申し訳ない限りです、申し訳ありません。
もちろん、結果論として顕れる素晴らしい要素も御座います。
確かに、「私にとって」良い作用もありましたから。(わざわざ「私にとって」と、鉤括弧を付けて太字にしているところに、注目してほしゅう御座います。)
ありましたが、かといって、私は断捨離について、このように考えております。
「断捨離それ自体に善悪は無く、価値があるわけではない、ましてや断捨離する事は偉いことではない」
時々、断捨離を見せつけるブログを展開されたり、「断捨離なう!ウェイ!」とか、そんなのりで「断捨離自慢」を展開している人って、見かける事も御座います。
FacebookやTwitterで断捨離自慢をつぶやかなくても、会社や実社会で「最近断捨離したんだよ、そしたらすっきりした、あなたもやってみな」と、ドヤっと勝ち誇ったような言い方をする人など。
私は、断捨離をすることを否定は致しませんが、断捨離する事は、自慢にならないという立ち位置です。
だいたい、断捨離しなければならないような事態を招いたことを突っ込まれたら、どう答えられるでしょうか。
もちろん、どのような御縁によって断捨離しなければ立ちゆかなくなるような生活になるか、わからないのが娑婆世界の理ですから、一概に責められる事ではありませんがね。
その辺り、「断捨離=素晴らしい行為、業」と、先入観が固まってしまっている人には、この段階で一旦冷静になって頂く機会として、このような話を致しました。
これから「いっちょ断捨離してみっか!」という人に対しては、水を差すような話ですが。
ただ、やはりこの事は、外せませんし、外してはならないと、私は頂いております。

断捨離と物欲の関係についての洞察:落とし穴があります
「物欲を減らす」「物欲をコントロールする」という名目で、断捨離をする人もいらっしゃいます。物への執着を減らすという目的と、その効果が断捨離にある、というのが、現代社会における通説であるような、そんな風潮を感じます。
この辺りが、仏教が説く「少欲知足(しょうよくちそく)」と親和性があり、ヨーガを元にした概念であるという特色が御座います。
確かに、入門時から私物どころか生活空間も、最低限だけしか無いという雲水の修行風景を見てみると、物欲を減らしたり、物に対する執着を減らす効果への期待も、頷ける話です。
しかし、現在はあまりにも、「断捨離=物欲を減らす、物欲コントロールの効果」という、いわゆる「ゲイン」を得ようとする期待が強過ぎないか、そのような懸念も御座います。
断捨離の効果効能が、一人歩きしてしまっているような、そんな空気と言いますか、風潮も感じる事があるのです。
ここに、断捨離と物欲に関する落とし穴を、私は見出しております。
もっとも、それはある禅僧の話から、ヒントを下手から、私が独自に洞察したわけではありませんがね、お坊さんのお智慧、仏教の智慧を借りての事に御座います。
その話をするために、根本的な問いを致しましょう。
断捨離をするという事は、どのような事でありましょうか。
もっと詳しく問いますと、断捨離とは、どのような行為でありましょうか。
恐らく、「持っている物を捨てる事」と、答えられるかと存じます。
更に詳しく、より正確に記そうとすれば、「自己の所有物を、自己の意思により、断ち捨て離れる」といったところでありましょう。
「自己の意思により」を、わざわざ朱文字にして強調したところが、重要な点です。
「自己の意思により」と言うと聞こえは宜しいかも知れませんが、大抵の場合は、こう言い換えられるのではありませんかね。
「自分の所有物を、自己都合で捨てる」
自己都合とは、自分の思い通りにする、という意味です。
私はここに、「調えられた自己に由る断捨離」であるか、「洞察無いままに、自分勝手・自己都合の断捨離」であるか、その分かれ目を見出しておるのです。
申し訳ありません、くどくどと。
でも、ここは一度考えて欲しい事ですし、私も考えなしに「もう必要無いから捨てよう」と、自分の都合「だけ」で、断捨離をしていた事を反省から、伝えておきたかった事でして。
断捨離するときに、このような洞察をする事は、自分の思い通りに物をどうにかしようとしている事に気づくきっかけ、気づく縁にもなります。
「物・物質と自己の関係」を、きちんと考える事は、その後の物の扱い方であったり、買い物をする際に注意深くなる業にも繋がります。
この単元はくどい話になりましたが、何度か読んで考えて頂ければと存じます。
断捨離の効果に期待しすぎない:距離感を大切に
断捨離をする場合、特に結果を大切にする傾向が見られる現代社会においては、気になるのは「断捨離の効果」で御座いましょう。確かに、私も実践してみて、その効果を実感しておりますし、私以外にも多くの人が、色々な効果効能を教授出来たと報告されていますから、何らかの効果があるのは確かです。
例えば、物欲が何となく減った気がする、出費が減った、前より物を大切に扱うようになった、等々。
「再び断捨離する必要が無いに」という事で、断捨離をした後に物を極力増やさない、ミニマリストとしての在り方によって、物質的な煩わしさから解放された人もいらっしゃるようですからね。
ただ、私もこのお堂(ブログ)でも、効果について話をしてきましたし、私の体験も申し上げてきましたが、改めて注意勧告しておきたい事が御座います。
それは、これらはあくまで結果論であって、最初から期待したわけではない」ということです。
私の場合、自己啓発関連の本を、綺麗さっぱり引き取って頂いたお陰で、精神面でも部屋もすっきりしましたし、30750円の現世利益も賜りましたが、それもあくまで結果論です。
そもそも、自己啓発本や衣類については、断捨離という概念そのものが無い状態で、とりえあず手放そうとしか思っていませんでしたからね。
「もう読む事も無いし、要らないから古本屋で引き取って貰おう」「ウエスや雑巾にするか」という動機から始まりまして、スッキリするだろうという効果は、全く期待していませんでした。
やってみた結果、なかなかにスッキリしたというだけの話です。
これから断捨離を始めて見ようという人の中には、まずは方法論や具体的なやり方を学ぼうと、断捨離の本やセミナーに行かれた人もいらっしゃるかと存じます。
そのような場合、本もセミナーも商売ですから、メリットであったり効果効能も、打ち出してこられる事で御座いましょう。
それはそれで、仕方の無い部分ですし、それ自体が悪いとは申しません。
ただ、その効果効能ばかりに過度な期待を持ちすぎるのは、落とし穴に嵌まりかねない、と、注意勧告させて頂く次第で御座います。
これは、瞑想難民の話にも共通する事柄です。
瞑想難民とは、色々なケースがありますが、その一つが「瞑想にゲイン(得られるもの)を求めすぎて瞑想に期待しすぎるあまり、逆効果になってしまう」という事が御座います。
例えば、「瞑想をすると怒らなくなる」と盲信して、瞑想を続けても、怒る事がある。
「なんで?瞑想しているのに!」と、瞑想をますます頑張るけれども、逆に上手く行かずにイライラして怒りっぽくなって・・・と、深みにはまってしまう、と言う具合です。
イライラせず怒らないようになるという効果を盲信するあまり、それが成されない事で逆効果に、という具合ですね。
その辺り、プラユキ・ナラテボーさんと魚川祐司さんが、対談やツイキャスなどで解説して下さり、魚川祐司さんはわかりやすい譬えでツイキャスにて解説して下さいました。
断捨離の場合で観てみますと、こういう事です。
断捨離しても、なんだか金運も上がらないし、スッキリもしない、だからもっと断捨離しなくては、と、そんな風になってしまったら、大変です。
ピン芸人のヒロシさんのギャグが現実になってしまい、笑えない状態になりかねません。
ヒロシさんの「ヒロシですネタ」に、こんな話があります。
「ヒロシです、生活しやすくしようと、いろんなものを捨てました。生活出来なくなりました。ヒロシです、ヒロシです、ヒロシです・・・。」
実際にこんな状態になるまで物を捨て続けるというのは、現代社会・娑婆世界で暮らす者としては本末転倒ですし、笑えない状況です。
断捨離には、確かに実践する事で、なんらかの変化であったり効果は御座います。
御座いますが、それを期待しすぎて断捨離に手を出すのは、副作用に悩まされる可能性もあります。
その辺り、この文章を読んで頂いている段階で考えを深めて頂き、その上で、断捨離と言う概念と効果の宣伝と、良い塩梅となる距離感を養って頂き、上手に距離を取って頂ければと存じます。
根本的な事・土台について学んで洞察したら、実践方法も学びつつ個々に工夫をして、上手な断捨離を
今回は、結構くどくどとした話を展開してきたと、自覚しております。自覚しておりますが、やはりきちんとこの部分を知っておいて頂く事が、後々に繋がる事ですから、くどくても申し上げてきました。
根本的な事柄であったり、土台をきちんと築いた状態であった方が、断捨離の副作用的な落とし穴に嵌まらない安全装置ともなります。
私は、仏教・仏法に触れるときもそうですが、安全装置を学んで置く事が大切である、と考えております。
仏教をこれから学ぼう、学び始めようとしている人や、初学者という位置にいる人には、特に知っておいて欲しい事柄であるとも思うております。
伝統ある仏教各宗派には、宗教的暴走をしないための安全装置が、盛り込まれております。
以前も話した通り、例えば浄土宗であるならば、毎日の勤行で称えさせて頂くことになります「一枚起請文」や「一紙小消息」も、安全装置としてお導き下さいます。
このことについては、私も日々実感しております。
真宗・浄土真宗でしたら、あくまで在家仏教者である私個別の頂き方ですが、「歎異抄」や「雑毒の善」の教えに、安全装置的なお導きを感じます。
断捨離も、最初の段階で、これから始めようという段階において、安全装置的な事柄を学び、考え方や概念といった根本的な事柄なり土台を築いておくことが肝要です。
この辺りの根本的な事柄が、結構疎かにされがちですから、今回は結構くどい話を展開致しました。
くどい話をすることにも、きちんと意図があります。
その意図をきちんと伝えられていなかったら、私の伝える力の至らなさです、申し訳ありません。
それを踏まえた上で、土台を築いて断捨離を実践していく準備を調えて頂ければ、嬉しゅう御座います。
尚、土台となる安全装置となる話として、こちらも同時に読んで頂ければ、更に土台が強固なものとなりましょう。
参照:「断捨離の注意点|後悔しない云々以前の陥りやすい怖さ」
参照2:「ミニマリスト生活の弊害や注意2つ」
参照3:「断捨離の意味とコツを仏教から学ぶ」
これらの土台が出来たら、断捨離の具体的な方法とコツを学んで頂くと宜しいかと存じます。
参照:「断捨離実践のコツと効果まとめ」
参照2:「断捨離実践のコツと効果まとめ|個別事例編」
断捨離の話と関係が深い「物欲」についても、学んでおくと宜しいかと存じます。
参照:「物欲を抑える方法|振り回されないための智慧」
参照2:「物欲がないのは危険か|善悪よりも物欲との距離を問うべし」
欲について学ぶ事は、自己の欲について考える御縁ともなりましょう。
あなたにとって「断捨離」という概念と、良き塩梅なる距離感を掴める始まりの章となりましたら、大変嬉しゅう御座います。
合掌