有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。
このお堂(ブログ)では、断捨離の意味に始まり、効果やコツなども仏教・仏法の智慧をお借りしながら、たびたび申し上げております。
断捨離とは、現在は「強烈に捨てまくる掃除」のような意味で捉えられる方も、いらっしゃるやも知れません。
ミニマリストやシンプルライフと言った、生活様式のモデルも流布されておりますから、そのような印象を持つ人がいらっしゃるのも頷けます。
このブログでも、断捨離の意味から方法論とその効果に到るまで、色々とお伝えしてきたものであります。
今回は、ちょっと方法論から離れて、概念的な話にはなりますが、仏教的にその意味を味わってみようと試みます。
断捨離の捨の意味を改めて味わう
断捨離の意味については、このお堂(ブログ)でも何度かお伝えしております。断も捨も離も、全て「物事から距離を置く」という共通点があると、私は認識して、そのような味わいを頂いております。
現代的な意味での断捨離は、物を捨てるなどして手放す事を表すために、少なくとも物質的には距離を置く事が主眼におかれます。
このことから、物を捨てるための技術論やコツ、その効果を知りたいという欲求が芽生え、それに伴い指南書の類いも沢山出回るようになりました。
断捨離の技術論やコツと、それらの効果を知りたいのはわかりますし、それはそれで大切な事で御座います。
ただ、断捨離は元々ヨーガ(ヨガ)からの言葉であり、意味もそこからやってきたものです。
そして、関連のある仏教からの解説もありますし、折角ですから改めて、断捨離の意味を仏教的に味わってみるのも、断捨離を深める一助となりましょう。
私は「断捨離」に、とても仏教的、特に禅的な世界観を見出しております。
「断」の字をとってみても「前後際断」という禅語があります。
それに、「捨」は、「放下着(ほうげじゃく)」と言って、「捨ててしまえ!」と、結構強烈に捨てる事を説く禅語もあるほどです。
「離」は「執着を離れる」と言う、物事に囚われていることを戒めたり、煩悩から離れる事を説く言葉であります。
今回は、断捨離について意味の理解を深める一助として、この「捨(しゃ)」という言葉を仏教的に味わってみましょう。

断捨離の捨:「慈悲喜捨」から捨という意味を改めて味わってみる
仏教の基本的な事柄であり、原始仏教から伝わっている言葉と教えに「慈悲喜捨(じひきしゃ)」が御座います。この「慈悲喜捨」は、「慈・悲・喜・捨」と、全て繋げて大切に考えながらも、一つ一つの概念としても考える事があります。
釈尊の時代から、原始仏教においては、この「慈・悲・喜・捨」という四つの心を育む事が説かれております。
熟語としては、現代社会でしたら「慈悲と喜捨」に分かれて考えられたり、伝えられることも多くありましょう。
今回は、特に「捨」に注目しますから、「喜捨」を取り上げて、断捨離の意味を深め味わう事と致します。
「喜捨」という言葉の基本的な意味は「進んで金品などを施捨する、喜んで施捨する」です。
また、真宗大谷派のお坊さんからは、「他者の善行を喜ぶ」という意味と解釈も教えて頂いた事が御座います。
「施」という言葉から分かる通り、布施行とセットで教えられる事もあり、しぶしぶと物を手放したり、いやいや布施して喜びなないのは布施では無いし喜捨でも無い事が、ここから読み取って頂けるかと存じます。
喜んで捨てる、というわけですから、物事に執着していたら、とてもじゃありませんが出来ません。
この「喜捨」についてですが、字面から「喜んで捨てる」という事を連想しやすいですし、そのように説いて下さるお坊さんも多く、私もそのような頂き方をしております。
一方で、私はこの「喜捨」について、違った頂き方もしており、それが断捨離の意味を深めて、効果も高める一助となるのではないか、という味わいを持っております。
断捨離の捨の意味を深めるために:喜捨の頂き方その1
断捨離の「捨」を「喜捨」から学び、その意味を深く味わう試みとして、私なりの「喜捨」という概念の頂き方・解釈を、お伝えしていきます。「喜捨」の頂き方の一つ目は、上でもお伝えしました通り、
:喜んで捨てる、進んで財・物品などを施捨する
です。
これは、断捨離する場面に照らし合わせると、例えば洋服や本を断捨離しようという時に、他者に喜んで譲る、ということです。
「捨てるのは勿体ないなあ、人にもあげたくないなあ、でも良い人って思われたいからなあ。」というのは、喜捨ではありませんし、自己都合に執着している姿であります。
そうではなく、「次に来て下さる人が、喜んでくれる事が自分にとっても嬉しい」というのが、喜捨ありきの断捨離の意味です。
そもそも、受け取って下さる人が、押しつけられたと感じたり、イヤイヤ渡されたと思ったら、受取人は素直に喜んで下さるでしょうか。
人によりけりと言われればそれまでですが、少なくともイヤイヤだったり押しつけの断捨離は、お互いに喜びも薄いものとなりましょう。
そうではなく、「喜捨」ありきの、お互いが気持ち良く過ごせる受け渡しをしたいものであります。
「断捨離」の一環として、服や本などを誰かに受け継いで頂く時は、「喜捨ありき」でありたいものです。
それが、断捨離における布施行ともなりましょう。

断捨離の捨の意味を深めるために:喜捨の頂き方その2
私が個別的に頂いております「喜捨」のもう一つの意味は、:喜びを捨てる
です。
なんだか、物騒であったり、どういうこっちゃ、と言われそうな「喜捨」の頂きかと存じます。
これはどういうことかというと、六道輪廻という仏教が説く考え方や概念と、繋がる話であります。
仏教の基本的な教義として「一切皆苦(いっさいかいく)」が御座います。
これは、「この世の一切は皆苦しみである」という事で、喜びという刺激も苦に繋がる、という考え方です。
この「喜びも刺激に繋がる」という事については、小池龍之介さんが色々な著書で、詳しく伝えて下さっています。
参照:「小池龍之介さんの本で私が選ぶ3冊」
参照2:「小池龍之介さんの情報まとめ」
「じゃあ、喜んじゃいけないの?」と思われるかも知れませんが、そう考えて結論づけるのは早計であります。
これはどういう事かというと、人間誰しも喜ぶことはありますし、それは人の性でありますから、避ける事は出来ませんし、無理に避ける必要も御座いません。
問題となるのが、その喜びを感じた後の話です。
「喜び」という刺激を受けると、その刺激をもっと強めようとしたり、刺激に依存したりと、「喜びへの執着」が生まれる可能性があります。
これは、六道輪廻の「天界」に繋がる話であり、「有頂天(うちょうてん)」になってしまいます。
いつまでも喜びの刺激を引きずっている状態は、有頂天になりっぱなしで、少々不味い事になろうことは、容易に把握して頂けるかと存じます。
そこで、「喜捨」を上でお伝えしたように「喜びを捨てる」という読み替えをして、その意味を頂いておるのです。
「喜びも束の間」という言葉がありますが、「喜びに執着せず、喜びという刺激に囚われぬように冷静になる」というのは、禅的な「喜捨」の頂きではないか、私はそのように味わいを頂いております。
断捨離の話として意味を頂くならば、「断捨離してスッキリして嬉しい、でもその喜びに執着せずにいる」ということです。
そうする事で、「俺、断捨離してるんだよね」と、自慢げに語る事もなく、そこから断捨離を他人に強要することも戒められると、私は思うております。
「喜捨」のこのような読み替えは、このような効果があると考えておりますが、如何でしょうか。

断捨離の捨の意味から学ぶ「断捨離に執着しない」という在り方
断捨離の「捨」に注目して、その意味を「喜捨」という仏法から改めて問い、意味を深める味わいを感じて頂けましたでしょうか。世間では、断捨離ブームと言いますか、本屋に行けば、やましたひでこさんを始めとした、断捨離の本や片付け術の本が沢山置かれております。
もちろん、部屋が「汚部屋」であって不衛生だという場合や、どうしても断捨離する必要に迫られた場合は、それらを活用して、効果のある断捨離をする事も良いでしょう。
ただ、私は断捨離断捨離と、そればかりに固執したり、執着するのはどうだろうか、という問いを発します。
「お堂(ブログ)でも、断捨離を推奨するように意味や効果を伝えているのに、今更何を」と、思われるかも知れません。
私は、別に断捨離を否定しているのではなく、「必要も無いのにすることはない」と、そういう意味で申し上げておるのです。
まとめれば「断捨離への執着を捨てる」ということです。
断捨離が必要無ければ、無理に「断たない捨てない離れない」で結構。
必要に迫られたり、自然に「断捨離しよう」という重いが内側から出て来たら、断捨離の意味を考え、効果のある断捨離をすればよし。
それくらいの塩梅が、丁度良いかと存じます。
「断捨離に執着せずに断捨離する」これが、バランスの良い在り方かもしれません。
いざ断捨離をする事になったならば、こちらにも一助となるであろう話をさせて頂いております。
参照:「断捨離の意味とコツを仏教から学ぶ」
参照2:「断捨離の効果|仕事の身の回り編」
参照:「断捨離実践のコツと効果まとめ」
断捨離をする土台となる力や考え方を身につけて頂き、効果があって捗る営みになったならば、大変嬉しく思うことであります。
合掌