有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。
前回は、自信がない事そのものが悪ではない、という趣旨の話を致しました。
根拠のない自信を振りかざして、自信過剰に振る舞う人よりも、私は自信がないと悩みながらも、賢明かつ懸命に生きている人に、共感と好感を覚える次第で御座います。
あくまで、私の邪見な偏った色眼鏡であることは、否めませんがね。
ただ、根拠のない自信を持つ自信過剰な輩は、この「自己の色眼鏡・邪見偏見」にも気がつかないし顧みることもないことでありましょう。
現在は、特に自己啓発系ビジネスや、インターネットビジネス関連のマインドセット論、メンタル論では、「根拠のない自信を持つこと」を推奨している風潮を感じます。
私としては、これは大変危険な要素も含んでいると、警戒しておる次第です。
今回は、前回の関連する事柄として、根拠のない自信の怖さや危険性と、自信過剰に陥って憐れな我利我利亡者にならぬ智慧を、仏法から学ぶ事と致します。
根拠のない自信とはどういう事か
自己啓発本やビジネス書の類い、また最近でしたら、自己啓発系ビジネスの講師や、ネットビジネス系コンサルタントなり高額塾の講師などは、よく「根拠のない自信を持とう」という事を吹聴している風潮が御座います。そういう人達は、きっと「根拠のない自信とはなんぞや」という問いを立て続けて、深めた末に一言でばしっと解説出来るくらいまで理解した上で仰っているものだと、私は思いたいところでありますが、如何なもんでしょうか。
まさか、ろくに考えもせず、問いを立てたことすら無く、「誰々が言ったから」「本に載っていたから」と聞きかじっただけで、言いたがりが言っているだけ、なんてことはありませんよね。
似非コンサルタントや詐欺師と言った我利我利亡者共に尋ねても、まともな返答は出来そうにありませんから、ここで一つ、「根拠のない自信とはなんぞや」を問うて観る事と致しましょう。
「根拠のない自信」とは、何でしょうか。
この「根拠のない自信」を問い始めると、そもそもとして「自信とは何か」「自信の根拠とは何を言っていることであるか」という問いも御座います。
では、「自信」とは何でありましょうか。
その事については、以前に「自信がない事」について話をさせて頂いたときに、お伝えした事で御座います。
「自信」とは、「不安」「恐怖」などの心の作用や動きのように、自己から取り出したり、物質変換出来ない概念です。
言語化するならば、「「自信」という概念がある」ということです。
さて、この「自信」という概念ですが、「単なる概念です」とすると、概念に振り回されているだけです、はいおしまい、と、難とも味気ないものです。
ここから、もっと深めてみましょう。
「自信」を、もっと具体性をだした表現にすると、「自分を信じる心、自分を信頼する・信用する性質」が、国語辞典的であり、より具体的な表現です。
その上で「自信」とは、「自分の行動・決断によって生じた事象や御縁に、責任を取れる自分であると信じる心や気持ち・または確信」と、私は解釈しております。
英語にするならば「self-confidence」と言ったところでしょうか。
この事を踏まえて、ここから「根拠のない自信」へのアプローチです。
「根拠のない自信」は、何となくわかったようなわからん表現というのが、私が持つ印象です。
これを、「自信の根拠」とすると、「自分を信じる心の根拠」「どうして自分を信じているのかの根拠、自分を信じる理由」と、導く事が出来ます。
これらを踏まえた上で「自信の根拠」を言語化すると、「自分が行動した結果に対して、自分は責任を取れる事を信じている、という事の理由や根拠」と、表現する事が出来ます。
こう考えると、そもそも「根拠のない自信」は、なんだか無責任な響きもありますし、それを吹聴する自己啓発に毒された我利我利亡者共の在り方は、無責任な気が致します。

勢いも大事だが、根拠のない自信ばかりでは傲慢な自信過剰に陥る怖さがある
なんだか、私は「根拠のない自信」を、頭から否定しているように思う人も、いらっしゃるかと存じます。そうだとしたら、申し訳ありません、私の伝え方が拙いがゆえの事です。
私は、何も「根拠のない自信」という概念そのものを、完全否定しているわけでは御座いません。
現代社会、娑婆世界で生きていく上では、時には「根拠のない自信」という起爆剤も必要なときが御座います。
一歩目を踏み出すための勢いも大事な場面がありますし、その時に、根拠のない自信が発憤材料となる事も御座いましょう。
一方では、その役割や力の大切さも、見出してはおります。
しかし、昨今のビジネスや仕事の現場など娑婆世界では、「根拠のない自信」が一人歩きを初めて、その危険性が軽視されている、または全くもって無視されている怖さも感じ取れるのです。
自信がある、という状態は、確かによい方向へ向かい、善い作用も御座います。
ただ、それだけに偏りすぎて視野が狭まると、今度は慢心となって煩悩が燃えさかり、自信過剰で傲慢な亡者になりかねません。
実際に、「根拠のない自信が大切だ」と吹聴している輩の中には、単なる傲慢で自信過剰な我利我利亡者に陥っていると見受けられる輩も存在します。
あなたには、そのような亡者にはなって欲しくありません。
故に、「根拠のない自信が持つ危険性」を自覚し、そこから自信過剰で傲慢にならぬ方法を、仏教の智慧を借りながらお伝え致します。
根拠のない自信から自信過剰で傲慢にならぬ智慧1:自信満々の状態こそ冷静に言語化してみる
根拠のない自信を盲信し、自信過剰で傲慢な自信家にならぬ智慧の一つ目は、:自信に満ちあふれている状態で、冷静に言語化出来るようにする
です。
簡単に言いましたけれども、これは難しい事ではないかと、書きながら私も思うております。
自信満々、自信に満ちあふれている状態というのは、恐らくハイテンションと言いますか、いわゆる「モチベーションが上がっている状態」です。
やる気に満ちあふれていて、冷静ではなくヒートアップしている状態でありましょう。
これは、言うなれば「高揚感を覚えている状態」「高揚している状態」、アドレナリン全開というやつです。
参照:「高揚感の意味と使い方の例文|知っておくべき注意点」
参照2:「高揚の意味と学んでおくべき注意点」
参照3:「意識の高揚を図る意味と注意点」
確かに、苦手なことをやろうとか、難しい事に挑戦する際に、根拠のない自信が力となってくれる事も御座います。
しかし、あまりにも冷静さを欠いてしまうと、チームプレイやチームで仕事をしている場合には、一人だけ暴走して突っ走りかねません。
そうなると、後々面倒な事になったり、「根拠のない自信」で突っ走ったあげく、最悪の事態を招く悪縁を紡ぐ事にも繋がります。
自信に満ちあふれているときこそ、やる気はヒートアップしても心と体はクールに、「ホット&クール」が理想です。
その助けとなるのが、「自信満々の自己を冷静に言語化する」という事です。
言語化する一つの例をあげますと、「自分は今、凄く高揚していて自信満々だが、それは何故か、自信満々の根拠や理由は何か」と、問う事です。
「問いを立てる」という仏教的なアプローチが、自信を持ちながらも冷静でいられる智慧です。
もちろん、高揚している状態では難しでしょうけれども、念頭に置いておくだけでも、知っておくだけでも随分と違ってくると思います。
方法論としては、「問いを立てる」と共に、マインドフルネス瞑想なども取り入れてみるのも、力となるかと存じます。
参照:「マインドフルネス瞑想とは何か意味を考える」
参照2:「マインドフルネス瞑想の注意点」
参照3:「マインドフルネスと瞑想の本3冊」

根拠のない自信から自信過剰で傲慢にならぬ智慧2:成功して有頂天を経験した時こそ危険と心得る
根拠のない自信を盲信し、自信過剰で傲慢な自信家にならぬ二つ目の智慧は、:成功して有頂天になったときこそ危険だと心得る
ということです。
特に、これは成金や、運良くお金と縁が出来た後で自信過剰で傲慢な我利我利亡者になった者共による「根拠のない自信論」に多く見受けられます。
よくあるのが、「最初は自信なんてなかった、でも続けたら成功した、自信に根拠なんていらないんだ、根拠のない自信が大切だ」という論説です。
これは、「たまたま、あなたがそうだっただけでしょう」という事に気がつかず、一般論化する事をきちんと問うておらんということを露呈している論説であったりします。
仕事や起業した事で、世間知で言うところの「成功」に到達すると、「自分の力でここまでのし上がった、俺は実力者だ成功者だ」と、思いたくなるのが、人情です。
何事においても、上手く言ったり成功したと思える状況に出会えたならば、達成感や幸福感により、有頂天にもなりましょう。
しかし、その有頂天こそが、「根拠のない自信」に毒されて、自信過剰で傲慢な亡者への入り口となることがあるのです。
参照:「」
善い事があった、成功した、何かを達成した、その事によって有頂天になるのは、やむを得ません。
一時くらいは、有頂天を味わいたくなるのも、私も経験しています事ですから、経験則から理解しております。
しかし、もしも根拠のない自信によって何かを達成して有頂天になった時、そこから自信過剰になる危険性や怖さもある事を、自覚しておくべきです。
その危険性や怖さ、罠に陥らない智慧が、仏教が大切に説く「御縁・縁起」です。
「ここまで到達出来たのは、数多の御縁のおかげさま」を自覚する事は、謙虚さを育みながら、数多の御縁に守って頂けていることによる「自信」にも繋がります。
ここで言う自信は、浄土仏教的な意味で用いております。
どういうことかというと「自ら(みずから)を信じる御縁を頂いている」という、他力思想から頂く智慧に御座います。
根拠のない自信を吹聴して、自信過剰で傲慢な輩より、「御縁のおかげさま」という感謝の気持ちに支えられた自信をお持ちの方の方が付き合いやすいと思いますが、如何でしょう。

根拠のない自信から自信過剰で傲慢にならぬ智慧3:謙虚と自信は両立出来る
根拠のない自信を盲信し、自信過剰で傲慢な自信家にならぬ二つ目の智慧は、:謙虚と自信は両立出来る
です。
これは、二つ目の智慧とも繋がる話です。
自信を持つこと自体は、善でも悪でもありません。
問題は、なまじ「根拠のない自信」で成功したことによって、他人に自信を持つことを強要したり、自信過剰で傲慢になってしまうことです。
では、自信を持っている人全てが傲慢かというと、そうではありません。
あなたの周囲にもいらっしゃいませんか、毅然とした態度で自信に満ちあふれた姿で凜としていて、でもとても奥ゆかしくて謙虚な人。
私は、僧侶をされている方で、そのような方と何度か出会わせて頂いております。
佇まいからして、凄く荘厳で凜として、それでいて奥ゆかしく、まさに「謙虚な自信」を見せて頂いている、そのように感じられるお坊さんもいらっしゃいます。
自信を持つことは、決して傲慢ではありませんし、傲慢になる事でもありません。
問題は、自信の持ち方と、自信を持った後の立ち振る舞い・所作や心の在り方です。
決断と業の責任を取り、何かを達成した時は「御縁のおかげさま」に頭が下がる。
このような在り方が、「根拠のない自信」という一人歩きしているような概念に毒されず、自信を持ちながらも自信過剰で傲慢な煩悩に当てられない智慧であると、私は頂いております。
今回の話は、全開の話と共に学んで頂く事で、より理解が深まります。
参照:「自信がない事は悪い事ではない」
「根拠のない自信」を持つ事は結構ですが、その危険性や毒性に注意し、あなたが「謙虚な自信」を自然(じねん)に頂けるようになられましたら、大変嬉しゅう御座います。
合掌