有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。
あなたは「無礼講」という言葉と意味をご存じでしょうか?
会社の飲み会やお酒の席、あるいは同級生の集まりなどで、「今夜は無礼講で!」というかけ声なり合図が冒頭にあって、その後は無礼講で接するということもあるでしょう。
また、卒業シーズンや新年度の時期ともなると、新入生歓迎コンパや追い出しコンパ、忘年会や新年会のシーズンには、「無礼講」はよく聞こえる言葉ではないかと思われます。
流石に仏事、法要や法事が終わって和尚様とお斎(おとき)の場で、無礼講というのは無いと思いますけれども。
私は、この「無礼講」について、意味をしっかりと学んだ上で、本当に無礼にならないように己を律する事は大切であると、考えております。
無礼講の意味を学ぶ
まずは「無礼講」という言葉の意味をしっかり学ぶ事に致しましょう。「無礼講」の国語辞典的な意味は
:宴会の席で、身分や地位の上下を取り払って楽しむ事
とあります。
日本語源広辞典によると
:無礼(礼儀作法なし)+講(催し、宴)
:上下貴賤席次などを定めない酒宴を言う
とあります。
ようするに、上も下も無い、上司も部下も無い宴会の席ってことです。
無礼講という言葉の意味の歴史を紐解いていくと、元々は神事に由来します。
この辺り、神社の関係者や携わる仕事をされている人でしたら、私より詳しいかと存じます。
神事や由来についてまで、あまりだらだら説明しすぎても、今回の表題から趣旨がずれますがゆえに、この辺りに留めておきます。
無礼講だからといって羽目を外しすぎない空気は大切に
無礼講という言葉の意味は、これでわかりました。礼儀作法が無い宴や催し、現代社会でしたら飲み会の席で使われる言葉です。
「今夜は無礼講で!」というのは、最近ですとお約束的な言葉として捉えられており、流石に本気で無礼千万な事をやらかす人は少ないでしょう。
無礼講の号令がかかっても、羽目を外しすぎない人の方が多いのは、私は日本人の気質によるところも一つの要因だと頂いております。
俗に言う「空気を読む」ことが出来ている、という事だろうと思います。
私はこの「空気を読む」とか「場の雰囲気を考える」という在り方なりパトス(精神性)は、大切にしていきたいと考えております。
最近は「個性を大切に」「嫌われる勇気」「空気を読むな!」なんて事が言われていますけれども、空気を読みたくなくても読んでしまう、という国民気質を感じます。
実際に、私がそういう性質(たち・さが)であったり致します。
無礼講の席でも無法地帯になりにくいのは、大切にしたい気質であり、有り難いパトス(精神性・情緒)で御座います。

飲み会で無礼講と言われても、本当に無礼にならないように注意する
そうはいっても、人間は千差万別、各々によって気質の度合いは違います。中には本当に、無礼講の号令よろしく、読んで字の如く「無礼者」になってしまう人がいるのが、世の中というものです。
上司にタメ口になったり、途端に言葉遣いが横柄になったり、悪口を言うようになったり、様相は様々ですが、とにかく本当に無礼になる人もいらっしゃるようです。
そして、その飲み会が終わって次の日から「あいつは本当に無礼な奴だ」と言われてしまう始末。
「だって、無礼講といったじゃないか」と言い訳しても、後の祭りです。
我々は、このような事態を招かないように、注意したいものです。
無礼講でこそ無礼に振る舞わず、でもある程度リラックスする意識を持つ
私は、「無礼講の席でこそ、その人の本性なり本質が試されている場である」
と、解釈するようにしております。
無礼講と言われる宴の席において、多少の無礼を許されたとしても、どこまで気を緩めずに礼節を重んじられるか、ということです。
堅苦しいかも知れませんが、是が私の「無礼講」という言葉の意味と解釈です。
要約すると
:無礼講は己が試されている場
ということです。
会社の飲み会や仕事の付き合いで「無礼講」が宣言されたとき、座敷の席で足を崩す程度の事は、まあよしとしましょう。
でも、そこで気を緩ませすぎて、上司や先輩、仕事の付き合いでしたら得意先の人達に対して、タメ口を使い始めるのは、如何なものでしょうか。
私は結構細かい性質でして、そういう所は結構しっかり見ております。
無礼講の席でない場合では、すぐにやたらとなれなれしくなったり、タメ口になる輩は、警戒する性質を持ち合わせております私で御座います。
もちろん、それは私の邪見(じゃけん・自分都合の色眼鏡で見ている様)だという自覚は御座います。
その自覚を持っている上で、無礼講で本当に無礼になったり、やたらとタメ口で横柄になる人とは、付き合わないように、あるいは以前よりも距離を置くようにしています。
私のように、無礼講でこそ人物像をしっかりと見ている上司や先輩達であったら、今後の人間関係や仕事の進め方で支障を来しかねません。
無礼講と言われた時に、いかに「無礼講だからと言って、本当に無礼にならないように注意しないと」と、己を律する事が出来るか、ここが意識すべき大切なポイントです。
ただ、だからといって常にガチガチであると、それはそれで味気ない物ですし、楽しい飲み会でストレスを溜めるだけです。
無礼講の中でもきっちり礼節・礼儀や作法を守りながら、ある程度はリラックスする、良い塩梅を研究するようにしたいものです。
その事を実現する智慧に、仏教には「中道(ちゅうどう)」という教えが御座います。
「中道」とは、釈尊(お釈迦様)が、6年もの苦行をされた後に、菩提樹にて悟られたわけですけれども、苦行だけでも楽をするだけでもいけない、「苦楽どちらにも偏りすぎない」という教えです。
よく「中庸(ちゅうよう)」とごっちゃにされますけれども、私は「中道」と「中庸」という教えや概念は、別物として頂いております。
仏教の「中道」という教えは堅苦しいかも知れませんが、丁度良いバランスの取れた「無礼講」を、あなたの中で模索する事が大切です。
ちなみに、私の場合は無礼講だろうがお斎のような場であろうが、「無礼を働かない」「不快感を与えない」という事を意識し、終始己を律する事を心がけるようにしております。
その方が無難ですし、最初は大変でストレスになるかもしれませんが、それが自然に出来るようになると、ストレスも感じなくなります。
「無礼講の宴は修行の場」として実践して身につけていくのがコツです。

無礼講でこそあなたの本当の姿や良識が試されている
私は、:無礼講の場こそ己が試されている
と、私は「無礼講」という言葉の意味と場の意味を解釈しております。
無礼講と言われた場や、身心が緩みきった時、本当にリラックスして気が緩んだ時こそ、その人の本当の姿が見えてくるものです。
もしかしたら、上司や号令を掛ける宴会の進行役が「今夜は無礼講で!」と合図するのは、その試験をするという意味かもしれません。
そうなったら、本当に無礼になってしまったら、後々尾を引くことは目に見えているでしょう。
だからこそ、普段から己を律する事が大切なのです。
そして、無礼講と言われる飲み会なり宴、催しの席では、
:あなたの本当の姿や良識が試されている場
でもあると、私は考えております。
これは私が本当にされた実例ですが、昔知人に「俺を殴ってくれないか?」と、突然言われたことがあります。
いきなりのことで、私も何を言われたか分かりませんでしたが、とにかく、私に対して「殴ってくれ」と懇願されました。
表情が真剣でしたから、本気で私に殴って欲しかったのだろうと思うておりますが、真意は今でもわかりません。
真意が分からなかったと言う事もあり、何より、人を殴ることに凄く抵抗感を有していた私は、ついに殴らずに終えました。
今思えば、私はこの時に、良識や良心を試されていたのではないか、そのような事を考えております。
これは、以前「100分de名著「歎異抄」第4回」という表題でお伝えした事にも通じます。
参照:「100分de名著「歎異抄」第4回」
踏み絵みたいな気もしますが、あなたは「ここにあるおにぎりを、土足で踏みなさい」と言われた場合、抵抗なく踏めるでしょうか?
同調圧力が働いていたり、命がかかっている場合は、最終的には踏んでしまうかも知れません。
しかし、例えそのような状況下であったとしても、何らかの抵抗を感じるのではないかと思います。
あっさりと、何の抵抗もなく、罪悪感無くおにぎりを踏める人は稀でしょう。
いないとは限らないのが悲しいこの世・娑婆世界の理なのですが、せめて稀なケースだと思いたいものです。
これは、宗教的エートス(行為様式)の話ではありますが、そこから培われた良識の話でもある、私はそのようにこの例えを頂いております。
私のように、知人に「私を殴ってくれ」と言われても、そこで踏みとどまれるかどうか。
この行為様式によって培われた良識や、おにぎりを土足で踏む事になんとなく感じる抵抗感を「宗教心」という呼び方をする方もいらっしゃいます。
現代社会の倫理観とも言い換えることが出来ますが、その倫理観なり良識が、無礼講の場で問われていたり見られている、そのように私は考えております。
会社の飲み会や友人達とのお酒の席で「今夜は無礼講で!」と号令がかかった場合、己の良識を最初に意識することです。
それが、無礼講でも羽目を外しすぎず、人様に迷惑を掛けるような飲み方をしない智慧と働くこととなるでしょう。
尚、無礼講と関連のある事柄として、「慇懃無礼」という言葉についても、私なりの味わいや頂き方を記しております。
参照:「慇懃無礼の意味|辞書には載っていない仏教的味わい」
また、慇懃無礼というのは、正しい敬語の使い方とも関連がありますから、そちらも合わせてお読み頂くと、教養も身につきます。
参照:「させていただく症候群|正しい敬語か慇懃無礼で間違いか」
参照2:「「させていただく」の使い方|正しい敬語と注意点」
同時に学んでいたく事で、言葉の意味や味わいを深めて頂き、あなたの実生活に役立つレベルにまで昇華して頂けたならば、嬉しく思う私であります。
合掌