仏教用語の四字熟語まとめ

有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。

このお堂(ブログ)では、今まで幾つかの仏教語・仏教用語についてお伝えしております。
135212 仏教語・仏教用語の中には、現代では意味や使い方がさすらった果てに、全く仏教用語としての意味から離れたと思われるような言葉とも、しばしば出会う事が御座います。

このお堂(ブログ)でも取り上げた中で、「他力本願」は、まさにその典型でありましょう。

また、「一蓮托生」も、仏教用語としての意味、本来の意味からは、随分とさすらったものであります。



私は現代的な意味や使い方に「さすらった、さすらう」とは言いますが、「間違った、間違い」とは申し上げておらんところに、気がついた方もいらっしゃる事かと存じます。



現代的な意味や使い方は、それはそれで学び、仏教語・仏教用語としての意味と使い方も味わう、という在り方が、その言葉の意味を、より深く味わう事になるであろう、そのような頂き方をしております。

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仏教用語の四字熟語だけを集めてまとめてみました

今回は、このお堂(ブログ)でも、幾つもの仏教語・仏教用語について、私個別の味わい方を紹介しつつ、御縁を結んで頂いております。

その中で、今回は特に「四字熟語の仏教用語」と題しまして、四字熟語にしぼってお伝えしていくことと致します。



仏教用語由来の四字熟語とは、探してみると色々と御座います。

上で取り上げました、「他力本願」や「一蓮托生」も、そうですね。



国語の授業でも習ったという人もいらっしゃるでしょうし、これから四字熟語を習う人の教養としても力となり、実利においても味わう趣としても、有意義な時を過ごして頂けるかと存じます。
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仏教用語の四字熟語1:悪人正機

このお堂(ブログ)でも取り上げた、仏教用語の四字熟語に、
:悪人正機(あくにんしょうき)
が御座います。

「悪人正機説」と言われる事もあり、真宗・浄土真宗においては、必ず学ぶ事になるであろう四字熟語です。

参照:「歎異抄と悪人正機説|法然上人と親鸞聖人」



悪人正機・悪人正機説の始まりは、実は真宗・浄土真宗の御開山聖人である親鸞聖人ではなく、お師匠さんの法然上人であると、研究からも語られているところに御座います。

浄土宗の開祖であられる法然上人による悪人正機ですが、親鸞聖人が伝えて下さり、歎異抄で唯円さんが、そして蓮如上人が更に伝えて下さった事の有り難さと尊さは、変わらずにあると私は頂いております。

以前にお伝えした時も、その事について話を展開しております。



これを機会に、今一度「悪人正機」という言葉と意味、頂き方を見直して頂き、そこから、法然上人と親鸞聖人の言い回し・表現の違いを感じ取って頂けたらと思います。
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仏教用語の四字熟語2:自業自得

現代は日常語となっている仏教用語の四字熟語の一つに、
:自業自得(じごうじとく)
が御座います。

参照:「自業自得の意味と英語表現」

参照2:「自業自得と自己責任」



自業自得の意味は、現代ではさすらいを経て、あまり宜しくない語感を持つようになったものであります。

使い方の例は、「だからいわんこっちゃない、自分でやった事の報いだ、自業自得だよ。」という感じでしょうか。



「因果応報」という四字熟語も仏教用語由来なのですが、この自業自得も仏教用語である四字熟語で、どちらも現代では似たい実で使われている言葉です。

そして、「因果応報」も「自業自得」も、「悪い事をた報い」という文脈や場面で使われるようになりました。



仏教用語としての「自業自得」は、蓄積された経験なり知識によって養われてきた事、培われてきた事による方向付け、という味わいが御座います。

その事によっての行いや行為、仏教で行為は「業(ごう)」と言うのですが、それによって生じたことを表すのが「自業自得」であります。

それゆえに、必ずしも悪い事ばかりではなく、善悪関係無く業によって身に起こったこと全てが、「自業自得」です。



それが、いつしか「自己責任論」を端的に表した意味や使い方が定着するようにさすらったものであります。

言葉の諸行無常を感じる、四字熟語であり仏教用語であると感じるところに御座います。
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仏教用語の四字熟語3:因縁生起

このお堂(ブログ)で紹介させて頂きました仏教由来の言葉、仏教用語に「縁・縁起」が御座います。

「縁って一字だし、縁起でも二字じゃないか」と、思われる方も多い事でありましょう。



「縁起」とは、
:因縁生起(いんねんしょうき)
を略した言葉です。

参照:「縁の意味を英語で学ぶ」

参照2:「縁起のいい日と言うけれど」



現在はこの「縁起」が、「因縁生起(いんねんしょうき)」という仏教の意味からもさすらった末の使い方も見受けられます。

よく見聞きする事が、「これは縁起物だ」とか「黒猫と目が合った、縁起が悪い」という使い方です。

黒猫にしてみれば、大きなお世話ですし、たまったもんじゃないかと思うのですがね。



「因縁生起(いんねんしょうき)」とは、「他との関わり合いによって物事が生じる全ての現象や事柄」という意味です。

つまり「因縁生起」それ自体に、良いも悪いもありません。



この「因縁生起」について、英語を交えて詳しく解説して下さるのが、浄土真宗本願寺派の僧侶で「英語でブッダ」の著者である大來尚順さんです。

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上の参照記事「縁の意味を英語で学ぶ」にて、その味わいをお伝えしております。

英語から、他言語からのアプローチは、また違った味わいや、意味の頂き方が出来るものであり、その一端を感じて頂ければ、嬉しゅう御座います。

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仏教用語の四字熟語4:一蓮托生

「言語道断」や「因果応報」と似たようなさすらいを感じる四字熟語の仏教用語に、
:一蓮托生(いちれんたくしょう)
が御座います。

参照:「一蓮托生の意味と使い方」



「一蓮托生」と言うと、何となく私は美しい情景を浮かべるような語感を持っておるのですが、現代的な意味と使われ方は、これまたあまり宜しいところではないようです。

よくある使い方が、「仕方ない、こうなったらお前と俺は一蓮托生だ。」とか「我々は共犯だ、最後まで一蓮托生だ。」と、無いか悪事をはたらいた時や失敗したときに、道連れにするような時です。

一蓮托生とは、道連れという意味ではありませんし、そのような使い方も本来は致しません。



上で紹介させて頂きました参照記事でも紹介しておりますが、本来は「御浄土の、同じ蓮華の台(うてな)に生まれる」という意味です。

「夫婦円満一蓮托生」と、本来はそのような意味で用いられる言葉でありますが、現代では道連れにするような意味や言い回しに使われるようなさすらい方をしたものです。

出来る事ならば、人と人との関係性においては、「夫婦円満一蓮托生」というような意味で使いたい仏教用語に御座います。
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仏教用語の四字熟語5:他力本願

仏教用語の四字熟語の中で、浄土仏教にて外せないと勝手に思っているのが、
:他力本願・本願他力
です。

参照:「他力本願の意味と本願力」



「他力本願」は、本来の意味からさすらって遠ざかり、また宜しくない使われ方をするようになった典型でありましょう。



現在の他力本願は、自己責任社会ゆえのさすらいか、「他人任せにする」という意味で使われる場面も御座います。

なんでも、野球中継にてアナウンサーが「このチームの優勝は、もう自力では不可能となりました、他力本願に頼るしかありません。」と言う使い方をしたという話を、私も聞きかじったことが御座います。

恐らく是は、浄土仏教、真宗・浄土真宗が説く「他力本願・本願他力」とは違う意味で使っているな、と、私は察しております。



また、最近の事例でしたら、綾瀬はるかさんが主演されたドラマ「きょうは会社休みます。」でも、一悶着あったと言う話を聞きかじりました。

なんでも「他力本願」が、他人任せであったり、「果報は寝て待つ」という意味で使われていると言う事に、本願寺派の僧侶や真宗門徒の方々がもの申されている、という事だそうです。

私はこの事については、真宗大谷派の僧侶であられる川村妙慶さんが綴られているブログにて、知るに到りました。



私は、浄土仏教の仏教者であり、また大学は浄土真宗本願寺派の大学で学ばせて頂いたが故に、有り難い事に「他力本願・本願力」について、本来の意味も知るに到っております。

ただ、私としましては、「他人任せ」という意味で「他力本願」という言葉を使われても、意味や意図、相手の伝えたいことを、一端はくみ取るようにしております。

仏教と御縁が結ばれずに育ってきた人もいらっしゃるでしょうからね、その辺りを、こちらが側が、まずはくみ取る在り方を養っておきたいものであります。

その上で、「ところで、他力本願とは本来・・・」と、やんわりと伝えるようにしよう、そのように考えております。



いきなりガーガーと「それ、間違った使い方だよ。」と否定せずに、やんわりと仏教用語としての他力本願を伝えるようにしたい、これらの話から、このような事を考えた次第で御座います。

仏教用語を学ぶ理想の在り方と考え方

今回は、四字熟語の仏教用語にしぼって、このお堂(ブログ)でお伝えしてきました仏教用語について、復習がてらまとめてみました。



私は、言葉そのもの、言葉の意味や使い方は、どうしても時代が進むにつれてさすらう事は致し方ない、という頂き方をしております。

一方で、やはり本来の意味や使い方、仏教由来の言葉でしたら、仏教用語としての意味も学んでおく事も大切で有ろう、そのように思うております。

そうすることで、現代的な使われ方へのさすらいを味わえますし、また教養にも結びつきます。



現代的な意味や使い方だけしか知らないと、本来の意味にこだわる人からは、「言葉の使い方も知らんのか。」と、注意されたり、時には怒らせる可能性も御座います。

また、仏教一辺倒で、「現代的な意味は間違っている、けしからん!」と偏りすぎるのも、「中道(ちゅうどう)」という、仏教が説く歩み方から離れます。

理想としては、新旧どちらの意味や使い方を知っておき、教養と使い分けを身につけたいものであります。

なかなか難しいとは思いますけれどもね、私もままならないと常に感じておりますが、それでも精進する次第で御座います。



合掌

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