有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。
このお堂(ブログ)では、色々な仏教用語に触れております。
一つの仏教語・仏教用語について、各々が各々の解釈なり、頂き方をされることも御座いましょう。
仏教の教えとして、本来的な意味を頂きながらも、そのさすらいや独自の味わいなり頂き方をするのも、趣があるかと存じます。
以前は、このお堂(ブログ)でも、「仕事に活きる仏教用語に、このような仏教語もあろうかな」というコンセプト・主題にて、まとめた話をしたことも御座います。
今回は、「人間関係に活きる仏教用語・仏教語」と題しまして、人間関係について関連するであろうと思われる仏教用語を、まとめてさせて頂きます。
人間関係に活きる仏教用語1:挨拶と会釈
人間関係に活きる仏教用語の一つ目は、:挨拶(あいさつ)と会釈(えしゃく)
です。
参照:「挨拶の意味」
参照:「会釈の意味」
人間関係の基本は挨拶である、という人もいるくらい、挨拶という概念は大切にされているように感じられます。
学校でも、挨拶強化週間を設けたりして、挨拶運動をしたり挨拶の標語を考えたりと、奮闘されている方もいらっしゃることでありましょう。
私も学生時代には、そのような挨拶強化週間を体験したものであります。
生徒会役員と先生が校門に立って、ずーっと「おはようございます」と頭を下げている姿を、今でも覚えております。
もっとも私はその頃から、「挨拶をすれば気持ち良くなる」という感想を見聞きすると、「人によるでしょう」という突っ込みを心の中でしておったのですがね。
挨拶も会釈も仏教用語として仏教語辞典に載っている言葉であり、挨拶は禅語、会釈は仏説の真意・真実を明らかにする、という意味として説かれます。
会釈というと、現在は「会釈はお辞儀の角度は15度」と、ビジネスマナーセミナーやお辞儀の仕方講座などでは教えられる概念です。
現代的な会釈の意味を頂いて認識しながらも、仏教的な会釈も頂いて活かしたいものです。
仏教用語として「会釈」を頂き、それを現代社会の日暮らしや仕事の現場に活かす例として、会議が御座います。
会議もある種「会釈」と言えましょう。
色々な意見、時には矛盾したり対立するような意見を、あれこれと話し合って、良い方向へ共に歩む、という事を考えると、会議は会釈であると頂けるのではないでしょうか。
会議を、ただごちゃごちゃとイヤイヤやってイヤイヤ終わらせるのではなく、会釈の場としたいものであります。

人間関係に活きる仏教用語2:聴聞
人間関係に活きる仏教用語の二つ目は、:聴聞(ちょうもん)
です。
参照:「聞く力|傾聴と聴聞」
厳密には、これは仏教用語ではないかもしれません。
私も、東本願寺文庫へ行って仏教用語辞典を読ませて頂いたり、購入した仏教語辞典を読んでみましたが、仏教用語として「聴聞」は記載されておりませんでした。
しかし、特に聴聞を大切にしている真宗・浄土真宗においては、よく「御聴聞」という言葉を見聞き致します。
東西の本願寺で、真宗・浄土真宗のお坊さんの御法話を聴聞させて頂いている時も、お坊さんから「聴聞」という言葉をしばしば頂く事が御座います。
そして、幾人かのお坊さんから、「聴聞、聴くと聞く、傾聴」など、「きくこと」についての御法話も、何度か賜っております。
聴聞とは「行政機関が何かをするとき、あるいは何かの決定事項が在る時に、関係者や先方・相手方に意見を述べる機会を与えること」というのが、国語辞典的な意味です。
「事前聴聞」や「異議聴聞」という言葉を聞いた人もいらっしゃるかと存じます。
国語辞典的な意味は、これはこれでしっかりと覚えておくと致しまして。
真宗・浄土真宗のお坊さんが教えて下さる「聴聞」は、人の話を聞く、仏法を頂く者としての在り方を教えて下さっています。
「聴く、聴(ちょう)」というと、傾聴というように、こちらが聞き耳を立てて、相手の話をきちんと聴く、という語感・ニュアンスが御座います。
そして、傾聴を続ける事により、相手の真意なり声なき声も聞こえるようになる、というのが「聞(もん)」である、意味合いが御座います。
これが「聴」と「聞」であり、どちらも大切であるがゆえの「聴聞」という言葉である、と、私は味わいを頂いております。
相手の声なき声も聞こえるほどに、まずは傾聴すべし、という在り方だというのが、私の解釈です。
人間関係を円滑にする知恵と致しまして、よく「聞き上手になりましょう」とか「人の話を聞くことが大切」と言われます。
自己啓発関連の本などには、よくある事柄です。
しかし、本当に傾聴出来ている人は、どれだけいらっしゃるでしょうか。
私にとっても耳が痛い話では御座いますが、人の話を聞くと言う事がなかなか出来ないからこそ、何度も何度も「人の話をきちんと聞きましょう」という事を言われるのでありましょう。
そして、ずーっと長い事、同じフレーズが世の中で言われているのであろうと、私には思えるのです。
参照:「人の話を聞く大切さと仏法」
参照2:「人の話を聞く訓練の基礎」
参照3:「人の話を聞く関連まとめ|聞く力を養うために」
人間関係を円滑にする智慧として「傾聴」は、意識しておきたい事柄であります。
人間関係に活きる仏教用語3:融通と融通無碍
人間関係に活きる仏教用語の三つ目は、:融通(ゆうづう)と融通無碍(ゆうづうむげ)
です。
参照:「融通の意味と融通無碍」
融通というと、「ちょっと融通してよ」とか「あいつは融通がきかんやっちゃ」など、何かと都合が付く、という意味で認識されている言葉であります。
融通が利く人というのは、臨機応変というと聞こえが宜しいでしょうが、一方では「自分の都合通りに出来る人」という意味合いもあり、そのような含みがある、と私は観ております。
ようするに「便利な人」であったり、「都合良く支配出来る人」ということです。
仏教用語・仏教語の「融通」は、「融けて通じる」という意味であり、それに「無碍」がくっつくと、「さまたげるものがない」という意味を頂く事が出来ます。
つまり「融通無碍(ゆうづうむげ)」とは、「さまたげるものがなく、融け合い通じている」という味わいが御座います。
自分都合でどうのこうの、という意味ではなく、互いに融け合い通じている、という、理想的な人間関係の形にも思える意味を、頂けるのではないかと存じます。
「あの人は融通が利く人で助かる」という見方で、その融通が利く人を見ている事に気がついたら、一度仏教用語・仏教語としての意味で、その融通が利く人と「融通」してみては如何でしょうか。
お互いが融通している状態は、まさに人間関係が円滑で良好なように思えます。

人間関係に活きる仏教用語4:律儀
人間関係に活きる仏教用語の四つ目は、:律儀(りつぎ)
です。
「あの人は律儀な人だね」という場合は、現在は「りちぎ」と読むことでありましょう。
そして「律儀な人」というと、義理堅くて真面目な人、几帳面でルールをきちんと守る人、と言う語感・ニュアンスが御座います。
仏教用語・仏教語の「律儀(りつぎ)」は、「抑制する、防止する」という意味であり、悪業・悪行を為さぬための戒律のことも意味します。
善い行いの事も意味する言葉であり、「律儀」は「りつぎ」も「りちぎ」も、現代社会の価値観から照らし合わせても、良い意味で使われる言葉と言えます。
現代社会においても、仏教用語としての意味においても、「律儀な人」とは関係を結びたいと思える在り方だと、私は頂いております。

人間関係に活きる仏教用語5:一蓮托生
人間関係に活きる仏教用語の五つ目は、:一蓮托生(いちれんたくしょう)
です。
一蓮托生というと、「俺たち共犯だよな、こうなったら一蓮托生だ」と、道連れにしてやる、という意味で使われる事が御座います。
一蓮托生の意味は「道連れ」という意味ではありません。
蓮の花という美しい風景を連想出来る言葉であるのに、なんとも物騒なさすらい方をしたものであります。
仏教用語・仏教語の一蓮托生は、「浄土で同じ蓮の花で生まれる」という意味であり、本来は円満な人間関係の末を味わえる言葉であります。
失敗や悪い事をした時の道連れであったり、足を引っ張り合うのではなく、「夫婦円満一蓮托生」という頂き方をしたいものです。
夫婦という関係性、人間関係の善い形という頂き方の方が、心穏やかでいられるように思えますが、如何なもんでありましょうか。

人間関係に活きる仏教用語6:一期一会
人間関係に活きる仏教用語の六つ目は、:一期一会(いちごいちえ)
です。
参照:「一期一会の意味と禅語の智慧」
人の出会いは一期一会、というのは、御縁の不可思議さと有り難さ、そして尊さを味わえる言葉であると、私は頂いております。
また、仏教が説く「諸行無常(しょぎょうむじょう)」も教えて下さる言葉です。
「一期一会(いちごいちえ)」は禅語であり、茶の湯・茶道の世界で使われる言葉でもあります。
本日おもてなしするお客様との御縁は、一期一会の御縁である、ゆえに疎かにせずに、真摯かつ丁寧にすること、という戒めも含む、出会う人を慮る情緒ある言葉です。
そのような味わいを頂くと共に、私は日常生活・日暮らしにおいても、この「一期一会」は大切にしたい、そのように思えます。
そして、これは人間関係に活きる仏教用語として、上でお伝えしてきた仏教の言葉とも通じることであります。
例えば、学校や会社に、朝「行ってきます」と言って出かける人も多いことでありましょう。
しかし、朝出かけて、夜に必ず帰ってくることが出来る、という保証は、どこにもありません。
物騒なことを申し上げますが、しかし未来で誰がどうなるかは、100%こうなるという保証はなく、絶対にこの未来が来るという事は、どこにも担保されていないのです。
仏教ではそのことを「諸行無常(しょぎょうむじょう)」という仏法や、「一期一会」という禅語で説いて下さるのです。
身近な人とも、その日その時その刹那の出会いさえも、諸行無常の娑婆世界においては、大変有り難いのです。
有り難いというのは、感謝の意味と共に、「有ることが難しい」という意味も含みます。
お互いに、有ることが難しいのに、こうして出会えていることを尊ぶ。
だからこそ、「挨拶」と「会釈」を大切にしてお互いの存在をきちんと確認し合う。
お互いの話を「律儀」に「聴聞」しあい、「融通」した人間関係を育んでいく。
それが夫婦であるならば、その営みを続ける事で、「夫婦円満一蓮托生」へと、同じ方法を向いて歩み続ける。
それを思わせて頂けるのが、「一期一会」ではないか、私はこのような味わいを、この禅語から頂いております。
合掌