仏教用語と仏教的な言葉まとめ|9回目

有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。

言葉は変化する、言葉は時代を経るにつれて、意味も変わってくる、という事が、よく言われます。
557540 仏教用語や仏教由来の言葉も、時代を経ていく内に、色々なさすらい方をするにつれて、元々の意味からは全く違った意味になった、という事と出会うことも御座います。

また、仏教用語であったものが、経営や商い、現在でしたらビジネスと言うとわかりやすいでしょうか、そのような業界で使われるようになったというものもあります。

言葉のさすらいを辿って行く言葉の旅は、仏教用語としての知識と教養を深める事にも繋がりますし、元々の意味が現状を打破してくれるヒントとなる事も、現代社会ではあり得るのではないか、という事も思います。

今回も、教養を積みながら、その言葉の全く違った味わいから、現状を打破するヒントを受け取って頂ければ、嬉しゅう御座います。

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仏教用語や仏教的な言葉のまとめ9の1:投機

仏教用語や仏教由来の言葉、仏教的な学びのある言葉のまとめ9の一つ目は、
:投機(とうき)
です。

参照:「投機とは|元の意味を禅仏教に学ぶ」



投機と言いますと、経営経済を学んでいる人や、金融関連の企業にお勤めの方でしたら、欲ご存じの事かと思います。

投機というと、短期的な価格変動によって値動きする市場で、差額による儲け、利ざやと言うのですが、それを狙う行為の事、という意味で、認識している人も多い事でありましょう。

現代は、デイトレーダーと言われる人もおり、株式市場でも投機的な売買がなされていますから、「株式投資」というよりは「株式投機」と言っても差し支えなさそうに思えます。



また、国語辞典的には、「不確実ではあっても、当たると利益が大きな事柄を狙う活動や行為」も、投機の意味です。

言うなれば、賭け事です。

金融取引、為替がどうのこうのとか株式市場の話は、どうしても人の思惑が入ってくるものです。

ゆえに私は、どうしたって必ずどこかで不確実性があるのだから、こういうのは全て投機であるように思えるのですがね、これは素人の考えではあるのでしょうが。



「Q.E.D証明終了」という漫画で、ある話では「株式や投資の世界は、人の思惑が入るから、絶対に読めない」という台詞がありましたが、それに妙に納得した物です。

正確には「読み切ることが出来ない」という事でありましょう。

この辺り、実は歎異抄第十三章からも学ぶ事が出来ます。



ゆえに、「必ず勝てる株式投資」「勝率は常勝レベルの投資術」なんてのは、信用ならん文言だと、私は捉えております。

見かけ事ありませんか、そういう情報商材や高額塾や似非コンサルティングの類いの広告。

ああいうのは、信用せずに流してしまう、スルーするのが宜しいことです。



「投機」とは、現在はこのようなお金にまつわる話に出てくる言葉として認識されておりますが、元々は仏教用語で、禅仏教の言葉です。

仏教用語としての投機は「師弟の心の動きや在り方が投合する」という意味が御座います。

また、「機に投ず、道と合一する、機を投じて合一すること」という意味や解釈もあります。



仏教においては、「機」とは対象の事であったり、体や心を表す言葉でもあります。

その「機」を仏道に投じたり、師匠との公案(問答)に臨む時には、合一するというのは、まさに「投機」という表現が当てはまります。



それが、時代を経てお金にまつわる言葉として、使われる事になろうとは、何とも言葉のさすらいは不可思議なもので御座います。

私利私欲を捨て去る、お金の執着を「放下着(ほうげじゃく)」する事を説く仏教の言葉が、なんとも奇妙にも思えるさすらいをしたものです。

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仏教用語や仏教的な言葉のまとめ9の2:猫も杓子も

仏教用語や仏教由来の言葉、仏教的な学びのある言葉のまとめ9の二つ目は、
:猫も杓子も(ねこもしゃくしも)
です。

参照:「猫も杓子も(ねこもしゃくしも)の意味と由来」



あなたは、普段「猫も杓子も」という言葉を、使う事は御座いませんか?

最近では、あまり聞かなくなったかな、と、ふと思うたものです。



「猫も杓子も」は、「誰も彼も、どこもかしこも」と言い換えることが出来て、「多くの人が携わっている、関わっている」というニュアンスや意味で用いられる言葉です。

「猫も杓子もポケモンGOをやっている」というと、多くの人がポケモンGOに興じている、という意味で、捉える事かと存じます。



「ねこもしゃくしも」とは、現在は「猫も杓子も」と変換されますが、「禰子も釈子も」とも書きまして、それが語源や由来という一説が御座います。

「禰子」は神主の事で、「釈子」は仏弟子、つまり仏教僧侶の事です。

このことから、神主から釈子まで幅広く、という意味付けや解釈も出来て、今日に到ったのではないか、という推察も出来ます。



それに加えて、以前にお話ししておりますからここでは省きますが、この言葉の出所は、一休さんの詩という説も御座いまして、その詩からも意味を拾う事が出来ます。

一休さんの詩の中に、「生まれて滅するのは、禰子も釈子も等しく同じ」という頂き方が出来る詩が御座います。

つまり、「誰にでも平等に、分け隔て無く」という意味も、「猫も杓子も」にあるような、そのような情緒を私は感じております。
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仏教用語や仏教的な言葉のまとめ9の3:一念発起

仏教用語や仏教由来の言葉、仏教的な学びのある言葉のまとめ9の三つ目は、
:一念発起(いちねんほっき)
です。

参照:「一念発起の意味と使い方」



「一念発起」と言いますと、「一念発起して、脱サラから起業するぞ」など、何か新しい事を始める時や、何かを決意した時に使われる言葉です。

不退転という言葉も用いるならば、「一念発起して起業し、事業は不退転の決意で臨む」というのが、現代社会の模範的な決意表明でありましょうか。

浄土仏教者としましては、「不退転の決意」という言い回しに、何か思うところもあるのですがね。

「不退転」って、決意する事じゃ有りませんから。



一念発起とは、仏教用語としては、「華厳経」に出てくる言葉であり、華厳経には「一念発起菩提心」と記されております。

これは、「仏の教えを敬って、悟りを求める心を起こすこと」という意味であり、仏道を歩む決意が窺える言葉であります。



浄土仏教と言えば、真宗・浄土真宗では、「一念発起」という言葉と触れる機会が御座います。

例えば、歎異抄第十四章には「一念発起するとき金剛の信心をたまわりぬれば」という文言が御座います。

また、浄土真宗本願寺派の御法話を聴聞し続けられている人ならば、馴染みのある言葉でも御座いましょう。

浄土真宗本願寺派の御法話を、布教師が締めくくりに「肝要は御文章の拝読にて」と仰ってから、蓮如上人の御文章を読まれます。

そして、よく読まれるのが「聖人一流の章」という、最初の御文章であり、その中に、「一念発起入正定聚とも釈し」とあります。

もちろん、この場合の「一念発起」は、仏教の意味で使われている一念発起です。



仏法を頂きながら、何かを決意されたとき、仏教用語としての意味と、現代的な意味の一念発起を同時にされている、という事になりましょうかね。

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仏教用語や仏教的な言葉のまとめ9の4:人の話を聞く

仏教用語や仏教由来の言葉、仏教的な学びのある言葉のまとめ9の四つ目は、
:人の話を聞く
です。

参照:「聞く力|傾聴と聴聞」

参照2:「人の話を聞く大切さと仏法」

参照3:「人の話を聞く関連まとめ|あなたの聞く力を養うために学ぶべき事」



人の話を聞く、とは、全く仏教用語でも何でも無いじゃないか、と思われる方もいらっしゃるかと存じます。

確かにそうなのですが、これは大切な事であり、また仏教的な事を学び、問うための大切な言葉であると感じておりますから、ここでも改めてお伝えしておきます。



人の話を聞く事の大切さについては、真宗・浄土真宗の御法話にて、私もたびたび教えて頂いておる次第で御座います。

真宗・浄土真宗では、法話を聞く「聴聞(ちょうもん)」を大切にしており、「聴」「聞」の違いを説かれるお坊さんが幾人もいらっしゃることからも、その事が窺えます。



「聴く」は、聞き耳を立てる、意図的に聴くと言う事で、「聞」は、それを経て聞こえてくる、という意味で、解説を頂いたことが御座います。

「聴聞」は、「聴く」も「聞く」も大切にしていると言う事を表している言葉で、これは仏法を聞く時に限らず、娑婆世界を生きていく上でも大切な事柄であると、私は考えております。

仕事をする上でも、人の話を聞く事は大切であることは、言われなくても分かっていると反論される方もいらっしゃいましょう。

新入社員研修やビジネスマナーセミナーなどでも、そのような話をされるかと存じます。

もっとも、ご高説垂れ流すセミナー講師や研修屋が、人の話を全然聞けていない、なんて事もありそうですがね。



現代社会では、特にインターネットビジネス関連のコンサルタントを名乗る詐欺師や我利我利亡者、自己啓発セミナー講師や高額塾の輩は、人の話をまるで聞きません。

聞く能力も無ければ、聞く気もなさそうです。

あのような亡者共は最早人ではありませんけれども、「人の振り見て我が振り直せ」という事で、反面教師として、我々は人として、人の話を聞く事の大切さを学ぶべきでありましょう。

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仏教用語や仏教的な言葉のまとめ9の5:浮き足立つ

仏教用語や仏教由来の言葉、仏教的な学びのある言葉のまとめ9の五つ目は、
:浮き足立つ(うきあしだつ)
です。

参照:「浮き足立つ意味と具体的事例」



浮き足立つ、というのは、これ自体は仏教用語ではありませんが、浮き足立たない生き方や在り方を考えると、仏教的にこの言葉から学べることが御座います。



浮き足立つという言葉は、落ち着きが無かったり、集中出来ていないという意味で使われる言葉です。

また、状態としては「そわそわしてなんだか落ち着きが無い」「不安定な状態」「心ここにあらず」といった辺りではないかと存じます。



浮き足立つ状態の具体例としては、ありもしない事柄に惑わされている状態であったり、外的要因によって注意散漫になっている場面を想定すると、わかりやすいでしょう。



例えば、朝に見たテレビの占いで悪い結果となった日は、なんだか悪い事が起こりそうな予感がして一日中そわそわしている状態って、経験されたことは御座いませんか。

このような状態が、まさに浮き足立つ、浮き足立っている状態です。

また、逆のパターンとして、自分にとって善い事が起こり、それで有頂天になっている状態も、これまた浮き足だった状態です。

「善い事があったんだから良いじゃん」と思われるかも知れませんが、それに執着して心個々にあらずでは、浮き足立っていて「今、ここ」に足が付いていない状態と言えましょう。



このような浮き足立つ状態を、仏教・仏法に照らし合わせてみると、「今、ここ」という地に足が付いていない状態であり、戒めるべき事柄に御座います。

地に足が付いていないというのは、まさしく幽霊の事ですね。

参照:「幽霊はいるかいないかを仏教から観る」

参照2:「幽霊を見る方法を仏教視点から学ぶ」



地に足を付けていない、浮き足立っている状態では、それこそ簡単に足元をすくわれてしまいます。

特に詐欺師や我利我利亡者、インターネットビジネスや自己啓発系ビジネスのセミナー講師やコンサルタントは、こちらを浮き足立たせて足元をすくい、それによって落っことしてしまった金銭をすくい取ろうという魂胆です。

奴らが緊急性をうたったり限定なり特典を用いて揺さぶりを掛けてくる手法を用いてくるのは、こちらを浮き足立たせるためです。

「このコンサルや塾を、自己啓発を買わない奴はバカだ」と言う、揺さぶりを掛けてくる輩もおりますね。

これは、己のしている事を「脚下照顧(きゃっかしょうこ)」出来ていない典型例であり、そのような手法を用いている詐欺コンサルタントや詐欺講師の方がよほど愚かですから、付き合わない方が無難です。



浮き足立っていると、簡単に足元をすくわれて、大切な財産や時間を奪われかねません。

浮き足立たずに、今をしっかりと生き抜くことが、仏教的な在り方であり、浮き足立たぬ智慧に御座います。



今回取り扱ってきた仏教用語以外の言葉は、こちらにも記して御座います。

参照:「仏教用語と仏教的な言葉まとめ|一回目」

参照2:「仏教用語と仏教的な言葉まとめ|8回目」

参照3:「仏教用語の四字熟語まとめ」



また、ジャンルに分けてお伝えしてもおりますから、これらも参照して頂けましたら、嬉しゅう御座います。

参照:「仏教用語と仏教的な言葉まとめ|人間関係編」

参照2:「仏教用語と仏教的な言葉まとめ|仕事編」

 

ご自身の気になる仏教用語や仏教的な味わいのある言葉から、あなたの教養が積まれていき、よりよき人生を歩まれる一助となりましたら、嬉しく思います。



合掌

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