仏教用語と仏教的な言葉まとめ|7回目

有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。

日常語を遡っていくと、仏教用語や仏教由来の言葉からさすらった、ということに辿り着くことが、しばしば御座います。
561189 普段何気なく使っている言葉が、実は仏教用語だったと知った経験をお持ちの方も、いらっしゃることで御座いましょう。

仏教用語自体を学ぶ事も、言葉を遡って到達する事も、教養を積むことになります。

最近は、大人の教養という言葉を使った本もありますし、興味そそられる人もいらっしゃるのではないかと存じます。

今回も、このお堂(ブログ)でお伝えしてきました仏教用語を幾つかまとめて、各々に飛べるようにしております。

ここを起点として、あなたの教養を積む一助となれましたら、嬉しゅう御座います。

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仏教用語や仏教的な言葉のまとめ7の1:自己顕示欲

仏教用語や仏教的な学びのある言葉のまとめ7の一つ目は、
:自己顕示欲
です。



参照:「自己顕示欲の意味と抑える方法を仏教から学ぶ」

参照2:「自己顕示欲とは|「うざい」と嫌われないために学ぶべき事」

参照3:「自己顕示欲の強い人の心理|嫌われないために学ぶ仏教の智慧」

参照4:「自己顕示欲の強い人の特徴|嫌われないために学ぶべき仏法」



自己顕示欲という表題・テーマについて、それだけで4回にも渡ってお伝えしております。

別に、自己顕示欲という欲と言いますか、煩悩が好きだから、というわけではありません。



今も大して変わりませんが、以前の私は自己顕示欲の塊なんじゃないか、と言うくらいに、自己を良く見せて、それを観て貰いたいと言う強烈な欲求があったものです。

そして、そこから法然上人が教えて下さる「三つの髻(もとどり)」という、自己顕示欲と関連が深い煩悩を握りしめていた時期も御座いました。

今でも持ってはおりますが、勤行や仏法が照らして下さり、気づく事はなんとか出来るようにはなってきました。

しかし、まだまだ到らない事ばかりですがね、修行が足らん、修行が、足りない。



自己顕示欲とは、これ自体が仏教用語ではありませんが、欲とついていることから、学ぶべき言葉と概念だと思おうので、ここに記しておくことに致しました。

肝要な事は、「自分のことではない」と、他人事として無視するのではなく、「ひょっとして、自分の事ではないか」と、自分事と頂いて、自己を調える材料にする事です。

自己顕示欲が強い人というのは自分ではないか、という反省こそが、「小罪をも犯さじと思うべし」という在り方に繋がります。



現代社会では、ある程度の自己主張は必要な事も御座いましょう。

自分の意思をはっきりと伝えること、意思伝達の必要性は、私も感じております。

しかし、だからといってそれが行き過ぎて、自己顕示欲全開というのも、うざいだの嫌われる要素となり、チームワークも乱れますから、考え物です。

自己顕示欲も、必要最低限の自己主張を維持しながら、謙虚さと奥ゆかしさによって、塩梅よくしていくのが、肝要ではないかと頂いております。

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仏教用語や仏教的な言葉のまとめ7の2:無念

仏教用語や仏教的な学びのある言葉のまとめ7の二つ目は、
:無念(むねん)
です。



参照:「無念とは何か、意味を仏教用語として学ぶ」



「無念」というと、現代社会では「残念」と混同して認識されている風潮を感じます。

「残念無念」という言葉があることからも、その事が現れています。



残念とは、「都合の悪い事、酷い有様」など、芳しくない場面なり状況を表す意味の言葉です。

そういえば昔、「ざんねーん!」という、ギター侍のネタも一時流行りましたが、あの「残念」も、都合の悪い事や芳しくない事を、一言で表したネタでありましょう。



仏教用語としての「無念」は、それとは全く違います。

そもそも「念が無い」と書きますから、残念の真逆と言えるでしょう。



仏教用語の「無念」は、「念を持たぬ状態、執着から離れた状態、念を継がぬ状態」という意味です。

念が残ってしまうと、それはもう「無念」ではありません。

それが、どういうさすらいを経たのか、「残念無念」と、残念であることを強調する使い方が市民権を得て、意味もそのようにさすらっていきました。



もしかしたら、時代劇で、「む、無念」と言って退場する様も、もしかしたら「残念無念」の現代的な意味の定着に、一役買ったかも知れませんね。

本来「無念」ならば、心置きなく迷い無く、一片の悔い無しという意味のはずですが、時代劇の「む、無念」は、凄く残念そうな退場の仕方ですし。

「無念」ではなく「パーフェクト」が最後の言葉となった「ラストサムライ」の、渡辺謙さん演じる侍の最期が、「無念」の散り際だったような、そんな感じが致します。
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仏教用語や仏教的な言葉のまとめ7の3:方便と嘘も方便

仏教用語や仏教的な学びのある言葉のまとめ7の三つ目は、
:方便(ほうべん)・嘘も方便
です。

参照:「嘘も方便の意味と由来からのさすらい」



「方便」は仏教用語ですが、「嘘も方便」は、仏教用語ではありません。



方便とは「ウパーヤ」という言葉の訳語で、意味は「悟るための巧みな手段、方法」です。

悟る、という到達点にいくため、目的に近づくための優れた手段なり方法の事を、方便と言います。



それがさすらって、現代社会では都合良く嘘をつくための言い訳めいた意味が、付着してしまいました。

「嘘も方便」というのは、現代社会においては、嘘をつく言い訳であったり、自己正当化の道具として使われている風潮が御座います。

詐欺師が好きそうな言葉にさすらったなあ、と、感じる事さえあります。



例えば、お客様からお金をかすめ取るために、「この企画で成功しなかった人は、一人もいない」だとか、そのような嘘をついてお金を取る輩も、実在します。

実際に私は、そのような輩を観たことがあります。

言っておきますが、これは「嘘も方便」ではありませんからね、虚偽による集金活動ですから、明らかな犯罪行為です。

嘘も方便ですらありません。



自己都合や詐欺、あるいは自己正当化のための嘘は、「嘘も方便」ではありません。

「嘘も方便」が通用するのは、自分の都合で相手を動かすのではなく、相手を慮ってのことがあってこそ、です。

この辺り、仏典の「方便品」などを読んで頂ければ、把握して頂けるかと存じます。

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仏教用語や仏教的な言葉のまとめ7の4:融通と融通無碍

仏教用語や仏教的な学びのある言葉のまとめ7の四つ目は、
:融通(ゆうづう)・融通無碍(ゆうづうむげ)
です。

参照:「融通の意味と融通無碍」



現代社会において、「融通してよ」というと、「お金の工面をしてよ、なんとかおまけしてよ」というニュアンス・語感が御座います。

また、「あいつは融通のきかないやつだ」と言われると、応用が利かなかったり、気が利かないという意味と認識されます。

もっとも、他人に対して、気が利いてくれるという事を当てにしている時点で、私は仏教的ではないし、傲慢な自分都合も甚だしい、と感じますがね。



仏教用語としての「融通」の意味は、「融け合って通じている」です。

境界がなくて、両方が相まって融合している状態や、融けているために通じ合いやすくなっている状態、というのが、仏教用語の「融通」の意味です。



そこから転じていき、さすらった結果が、現在の「都合を付ける」という意味や解釈です。

本来の、と言いますか、仏教用語の融通から、なんともさすらったものです。



また、「融通無碍(ゆうづうむげ)」という言葉は、更に通じていることを表している言葉であると、私は味わいを頂いております。

「無碍」は、「碍」が「妨げ、妨げるもの」という意味ですから、そこから「妨げるものが無い」という意味であることがわかります。

つまり「融通無碍」は、「妨げるものが無くて、融け合い通じ合っている事」です。



チームワークであったり夫婦間であったり家族の間柄というのは、「融通無碍」であることが、理想と言えば理想ですね。

ただ、人は個体差があったり、相手のことを100%理解出来ないために、融通無碍の実現は、なかなかに難しいものです。

だからこそ、「融通無碍なる間柄」というのは、目指したい理想として掲げられる、とも言えましょう。

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仏教用語や仏教的な言葉のまとめ7の5:引き寄せの法則

仏教用語や仏教的な学びのある言葉のまとめ7の五つ目は、
:引き寄せの法則
です。



参照:「引き寄せの法則の体験談に観る傲慢」

参照2:「引き寄せの法則とは鵜呑みにするのは危険な理由」

参照3:「引き寄せるより寄り添い寄り合う」

参照4:「引き寄せの法則まとめ|仏教の智慧」



「引き寄せの法則」という言葉自体は、仏教用語ではありません。

しかし、なぜここでお伝えしているかというと、引き寄せの法則にきちんと問いを発する事は、仏教的な学びに通じるからで御座います。



引き寄せの法則と言えば、自己啓発系ビジネスや、詐欺師が徘徊しているインターネットビジネス業界と言われる世界の我利我利亡者共が、大好きな言葉であり概念です。

そして、この引き寄せの法則を盲進していると、更に餓鬼道を突っ走ることと成り、地獄道まっしぐらとなってしまうのです。



引き寄せの法則は、「強く願ったり、より具体的に目標を念じる事や、紙に書いて具体化して具現化すること」というのが、その要約で御座いましょう。

こうすると、確かに綺麗な自己啓発という感じが致しますが、内情は次の通りではなかろうかと考えられます。



「自分都合の未来を引き寄せる」



そして、実はこの引き寄せの法則を実行して、それを引き寄せてしまったときが、最も危険であるのです。

「引き寄せたのは、引き寄せの法則の力だ、そしてその通り行動した俺様の実力だ」と、勘違いや思い上がりも甚だしい傲慢な亡者が、誕生してしまいます。

引き寄せの法則を他人に強く勧めていたり、ネットビジネス系でなまじ成功したと思っている輩のブログを観れば、その事が垣間見られます。



引き寄せの法則について、私は結構辛辣なことを申し上げておりますが、完全否定はしておりません。

このような概念がある以上、引き寄せたい事を引き寄せようとする事は、生きる事にも繋がりますから、完全否定は致しかねます。

しかし、それは安全装置有りきの話で、安全装置なくアクセルを踏みっぱなしの「引き寄せの法則信者」になってしまうのは、大変危険です。



その安全装置となるのが、「引き寄せるのではなく、寄り添う」という、真逆とも言える概念や在り方です。

そして、この真逆の事もきちんと取り入れる事が、宗教的でもあると、私は考えております。



引き寄せの法則というのは、自分都合の未来を引き寄せる事に躍起になり、他人を始めとした、色々な御縁を見えなくしてしまう恐れが御座います。

御縁を大切にする事は、「縁起(えんぎ)」を説く仏教において、仏道を歩む事にも通じます。

引き寄せの法則を盲信するあまり、御縁を無視する在り方というのは、仏道を歩むどころか、地獄道まっしぐらの在り方です。



御縁を大切にしながら、引き寄せたい事を視野に入れつつ、時にはきちんと御縁に寄り添う。



このような塩梅が、バランスの良い引き寄せの法則とやらの付き合い方ではないか、私はこのように頂いております。



「引き寄せの法則」は仏教用語ではありませんが、宗教的な視野から眺めてみるのも、仏教的な学びを得られる事では無いかと存じます。



合掌

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