有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。
このお堂(ブログ)では、仏教用語や仏教的な味わいがある言葉、仏法を学べる言葉や概念について、たびたび話題とさせて頂いております。
最近は、私も一冊持っておきたいなあ、という本に、「ぶっちゃけ寺」でもおなじみの曹洞宗僧侶であられる、千葉公慈さんの「仏教から生まれた意外な日本語」が御座います。
もう私の頭の中では、購入決定しておりますが、今は読む本がまだまだあるから、もう少し後になりそうです。
千葉公慈さんって、大学教授でもあられる方であり、社会的立ち位置が釈徹宗さんとの共通する部分があるかな、と思うていたりします。
千葉公慈さんと釈徹宗さんの対談、聞いてみたいものですし、本にまとめられたら予約して購入するでしょう。
仏教用語や仏教由来の言葉は、教養としても、また純粋に言葉のさすらいを楽しむということも出来ます。
今回も、仏教用語のさすらいや教養の一助となるために、以前取り上げて参りました仏教用語を、幾つかまとめて個々に飛べるようにしておきます。
仏教用語や仏教的な言葉のまとめ6の1:マインドフルネス・瞑想
仏教用語や、仏教的な学びや気づきを頂ける言葉のまとめ6の一つ目は、:マインドフルネスと瞑想(マインドフルネス瞑想)
です。
実は私、巷では「マインドフルネス瞑想」という言葉もありますが、「マインドフルネス」と「瞑想」は、くっつけて発してもよいのかどうか、今もよく分かっておりません。
ここでは、マインドフルネス瞑想と、繋げた言い方で統一しておきます。
参照:「マインドフルネス瞑想とは何か意味を考える」
参照2:「マインドフルネスと瞑想の本3冊」
参照3:「マインドフルネス瞑想の注意点」
瞑想と言えば、テーラーワーダ仏教・上座部仏教の僧侶や原始仏教僧侶が、色々と本も出して下さっています。
本を出されている僧侶で、代表的と言いますか、本屋でよくみかける僧侶と言えば、アルボムッレ・スマナサーラさんや小池龍之介さん、プラユキ・ナラテボーさん辺りでしょうか。
プラユキ・ナラテボーさんの本でしたら、最近は「脳と瞑想」が、新書になって出版されております。
先日、Daigoさんが帯で推薦していた写真付きの新刊が、大垣書店の棚にあって、ある程度立ち読みをして、概要を把握致しております。
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私は、以前に「自由に生きる」という、プラユキ・ナラテボーさんの本を読んでいたもので、新書になる前のバージョンを知っておりました。
「自由に生きる」の方が、「脳と瞑想」よりは新しく出版された本であり、プラユキ・ナラテボーさんの新しい本の方がよいというのであれば、「自由に生きる」から読まれるとよいかと思われます。
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立ち読みして概要を把握したところ、「自由に生きる」とは別に、読んでおきたい箇所が幾つもありましたからね、それに何より私、対談本が結構好きな性質でして。
本の紹介コーナーになりかけてきたから、話をマインドフルネス瞑想に戻します。
マインドフルネス瞑想は、現在は色々な場所でセミナーなり講座も開かれておりますし、本も僧侶の方々が出して下さっています。
私と経験上、坐禅もそうですし、マインドフルネス瞑想などの身体性を伴う行は、必ず一度は直接指導者に指導を青く事が大切であると思うております。
坐禅や禅の修行を、本を読んだだけで独自に進めると、「野狐禅(やこぜん)」と申しまして、独りよがりの禅になってしまう恐れが御座います。
マインドフルネス瞑想も、出来る事なら、一度きちんと僧侶や指導出来る指導者に、直接手取り足取り指導して頂いてからの方が宜しいかと存じます。
もちろん、マインドフルネス瞑想関連の本を読む事自体は、否定は致しません。
復習したり言語化して整理した上で理解を深めるという場合には、有効ではあります。
ただ、実践する場合には、やはり一度は直接指導を受けておくことが望ましいでしょう。

仏教用語や仏教的な言葉のまとめ6の2:上から目線
仏教用語や、仏教的な学びや気づきを頂ける言葉のまとめ6の二つ目は、:上から目線
です。
参照:「上から目線の心理|衒学編」
「上から目線」は、全然仏教用語でもなんでもないじゃないか、と思われるかと存じます。
確かに、上から目線そのものは、現代社会で使われる日常語であり、直接的には仏教由来の言葉であったり、仏教用語では御座いません。
ただ、「上から目線」を仏教的な視点から問い直すと、ある仏教の概念が浮かび上がって参ります。
それは、「慢の煩悩」です。
参照:「慢心とは人の性|毒されないための方法と注意点」
参照2:「慢心の意味と類語|仏教用語と共に学び戒める」
参照3:「傲慢の意味を宗教から学ぶ|嫌な奴にならないための注意と智慧」
「慢の煩悩」が燃えさかると、高慢・傲慢になったり、慢心によって人を見下したりするに到ります。
「上から目線」の表題でお伝えした「衒学(げんがく)」というのは、知識があるために陥る慢といえるでしょう。
「自分はよく勉強していて、こんな事を知っているんだ」と言う事を、やたらひけらかす人って、あなたの周りにもいらっしゃいませんかね。
もしかしたら、自身がそのようなことをやらかしてしまっているかもしれません。
このように、知識をひけらかしたり、「俺はこんなに勉強しているんだ」とアピールすることを、衒学と言います。
現代の揶揄する表現を用いるならば、「知ったかぶり」です。
知ったかぶりをしている人や、自己顕示欲全開で衒学に陥って、その上「上から目線」になっている人に対して、あなたはどのような印象を持たれるでしょうか。
その事を問うてみること、そして「これは自分のことではなかろうか」と、自己も問うことが、慢の煩悩に火を付けず、「上から目線」に陥らぬ智慧で御座います。
仏教用語や仏教的な言葉のまとめ6の3:彼岸花
仏教用語や、仏教的な学びや気づきを頂ける言葉のまとめ6の三つ目は、:彼岸花(ひがんばな)
です。
参照:「彼岸花の別名の味わい方」
彼岸花というと、お彼岸の季節に咲く花であり、墓地やお寺でよくみかけるという印象を持っている人も、いらっしゃるかと存じます。
私も秋の頃に、東本願寺の東側、烏丸通り沿いを歩いておる時に、ちょくちょくと赤い彼岸花が咲いている箇所を目撃しております。
そういえば、「彼岸花が咲く頃に」や「ヒガンバナ」という題名の漫画やドラマもありました。
観てもおらんし読んでもおりませんが。
「彼岸花」というと、何となく物寂しい響きと言いますか、儚さや悲しさを感じる花である、という感覚が御座います。
恐らく是は、墓場やお寺という、何となく現代の日本では、この忍土を離れる事を連想・イメージするから、という情緒的な事柄もあるからで御座いましょう。
「地獄花」「幽霊花」という別名があることからも、全くデタラメな物言いというわけでもなかろうかと存じます。
以前の記事では、なぜ墓場やお寺といった場所に、彼岸花が咲いているのか、という事についても触れております。
そもそもとして「彼岸」とは、悪い意味ではありません。
「到彼岸」は、「往生浄土」や「悟る事に到る、目覚めるに到る」という意味が御座います。
この辺り、仏教の世界観や教義と共に、改めて彼岸花について学ぶ事で、教養も頂きつつ、花言葉や花に対する人のパトス(精神性・情緒)も味わえるかと存じます。

仏教用語や仏教的な言葉のまとめ6の4:曼珠沙華
仏教用語や、仏教的な学びや気づきを頂ける言葉のまとめ6の四つ目は、:曼珠沙華(まんじゅしゃげ)
です。
参照:「曼珠沙華(彼岸花)の意味と花言葉を味わう」
曼珠沙華(まんじゅしゃげ)とは、上でお伝え致しました「彼岸花」の別名です。
彼岸花の別名が、曼珠沙華、という言い方も出来るかも知れません。
あの赤い花を「彼岸花」というのも、仏教の響きや味わいを感じますが、「曼珠沙華」も、私は仏教の味わいや響きを頂くところであります。
だって、曼珠沙華という文字一つ一つが、すでに仏教にまつわる言語ですからね。
例えば、「曼荼羅」とか、「数珠」とか。
曼珠沙華とは、「天上の花」という意味が御座いまして、法華経にも登場します花に御座います。
以前の記事では、それらについてもお伝えしておりますから、彼岸花の季節になれば、「彼岸花は曼珠沙華とも言って、実はこういう由来があるのです。」と、話したくなるかも知れません。
ただ、あまりそれをひけらかしすぎると、「衒学による上から目線」になりかねませんから、塩梅は見誤らないようにせんといけません。

仏教用語や仏教的な言葉のまとめ6の5:愚痴
仏教用語や、仏教的な学びや気づきを頂ける言葉のまとめ6の五つ目は、:愚痴(ぐち)
です。
参照:「愚痴の意味と英語表現から学び、知っておくべき注意点」
愚痴と言うと、「仕事の愚痴をこぼす」というように、何か嫌な事があったとき、グチグチと文句を言う事である、というのが、現代における「愚痴」という言葉の認識です。
「あいつは愚痴ばっかりだ」と、他人が愚痴を言っていることに愚痴をこぼす、なんてことも、現代社会においては、しばしばありそうな現象です。
私としましては、そもそも愚痴を言うような社会であるか、なぜ愚痴を言わなくてはならない状況にあるのか、そのような現状であるのか、という事を問うのですがね。
それが、仏教的な視点からの提言なり問いであります。
「愚痴」というのは仏教用語で、「三毒」の一つとして説かれます。
「三毒(さんどく)」とは、人の根本的な三つの煩悩であり、「貪欲・瞋恚・愚痴」の事です。
仏教における「愚痴」の意味は、「無明であること、愚かである事」です。
そういえば、「痴愚」と、漢字が入れ替わった言葉も御座いますね。
「痴愚」と言えば、宗教を学んでいる人や、トマス・モアという人の時代の哲学を学んでいる人でしたら、日本語で「痴愚礼賛」「痴愚神礼讃」と訳されているラテン語の宗教にまつわる文学をご存じかもしれません。
「愚」と「痴」は、どちらも「おろか」という意味であり、「愚か」「痴がましい」を重ねている言葉として、私は頂いております。
「痴がましい」とは、ばかげているという意味や、身の程知らず、という意味もありますから、現代の意味で使われている「愚痴」にも繋がりそうな気が致します。
グチグチと愚痴を言っている姿は、愚かでもありばかげている姿でもあり、愚痴の内容によっては身の程知らずである事もありましょう。
仏教用語としての「愚痴」も、現代の意味としての「愚痴」も、出来れば遠ざかっておりたいものです。
しかし、離れたい、消し去りたいと思うても離れきれない消しきれないのが人の性(さが)でありましょう。
それを見逃さずに、誤魔化さずに生きられたのが、法然上人や親鸞聖人といった、日本仏教の高僧達であると、私は考えております。
そして、その事が現代まで伝わり、己を問うきっかけを頂けていることに、有り難さと尊さを感じさせて頂く次第で御座います。
これら以前の仏教用語は、こちらにもまとめて御座います。
参照:「仏教用語と仏教的な言葉まとめ|一回目」
参照2:「仏教用語と仏教的な言葉まとめ|5回目」
属性別にして学べるまとめ記事は、こちらです。
参照:「仏教用語と仏教的な言葉まとめ|仕事編」
参照2:「仏教用語と仏教的な言葉まとめ|人間関係編」
仏教用語をつがいとして、仏法と出会って頂けましたら、大変嬉しく思います。
合掌