仏教用語と仏教的な言葉まとめ|4回目

有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。

この堂(ブログ)で紹介させて頂いている仏教用語や仏教的な言葉をまとめる案内図も、はや4回目であります。
360349 仏教用語や仏教的な言葉に限らず、この世に現存する数多の言葉は、出会う時節・タイミングによって、色々な味わい方が有ることに気づかされます。

それこそ、仏教的な味わいを、と言う事で言うなれば、気づかせて頂く、と言ったところでありましょうか。

今回も、仏教用語や仏教的な言葉を、このページから各々に飛んで頂き、今のあなただからこそ味わえる味わい方で、味わって頂ければと存じ上げます。

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仏教用語と仏教的な言葉まとめ4の1:仏壇

仏教用語と仏教的な言葉まとめをまとめた4回目の一つ目は、
:仏壇(ぶつだん)
です。

参照:「仏壇にお供えする習慣」



仏壇と言えば、仏教用語と言うよりは、仏具という印象を持っている人も多いかと存じます。

仏壇の「仏」は、仏という意味であり、「壇」は、一段高くこしらえた場所や設備のことです。

お仏壇が、床よりも高い位置にあるその位置関係からも、把握できる事でありましょう。

また、修法や授戒などを行うための、特殊な場所を表す言葉でも御座います。



仏壇と言えばお供え物でありますが、このお供え物を「供物(くもつ)」といい、また「蜜(みつ)」と表します。



勘の良い方は、ここである人物のことについて、ピンっと来たかたもいらっしゃることでありましょうか。

女優であり、モデルもされている方に、壇蜜さんという方がいらっしゃいます。

壇蜜さんの本名は齋藤支靜加さんであり、「壇蜜」というのは芸名です。

そして、この芸名が仏教の言葉に由来しておるのです。



「壇」は、上でお伝え致しました通り、仏壇や仏教において授戒などをする場所を表し、「蜜」は、供物、お供え物を表す言葉です。

壇蜜さんが仏教徒であるかまでは、私は存じませんけれども、仏教的なパトス(精神性)をい頂ける芸名にされたのは、宗教心や仏教徒して響く何かがあったのやもしれません。

子供の頃から、神社が直ぐ近くにあり、壇蜜さんの母君や祖母は、お墓参りを欠かせない宗教心の持ち主であったことも、大きく影響している事でありましょう。

私も、仏教と再開できて、浄土宗の檀家、仏教者であり宗教者としての自覚を持って生きるようになったのは、祖父母が仏教の素地を私に継承してくれていたからである、尊く有り難い、と思うことがあります。



現代社会においては、住宅事情もあってか、仏壇の無い家もあり、一節では仏壇が家にないという人は6割という数字も出ています。

2人以上世帯に暮らす全国30代から60代男女600名を対象としたアンケート結果ですから、もっと数を増やせば、違ってくるかも知れませんが、仏壇が家にあるのが常識であるという事は、最早ないものといっても過言ではなさそうです。



仏壇にお供え物をするエトス(行為様式)には、謙虚さを育むパトス(精神性)に繋がることも御座います。

無理に仏壇を家に置く事は出来なくても、その有り様を問い直す事は、あってもよいものではないか、そのように思う今日(こんにち)で御座います。

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仏教用語と仏教的な言葉まとめ4の2:傲慢

仏教用語と仏教的な言葉まとめをまとめた4回目の二つ目は、
:傲慢(ごうまん)
です。

参照:「傲慢の意味を宗教から学ぶ」

参照2:「傲慢な人から謙虚な人になるエトス」



傲慢という言葉そのものは、仏教用語ではありませんが、宗教と全く関係が無い事柄ではありません。

キリスト教、カトリック教会では、七つの大罪において、「傲慢・高慢」は罪とされているそうです。



仏教においても、傲慢で煩悩丸出しの立ち振る舞いは、戒めるべき事柄であり、キリスト教の傲慢に当たるのが「慢(まん)」である、という説明がされることも御座います。

仏教では、「慢(まん)」は煩悩として捉えられ、倶舎論では八不定地法が、唯識論では「慢」を含めた六つの煩悩を「六煩悩」として説かれています。



更に、「慢」には7つあって、それを総称して「七慢」としておりますが、七つの慢を総称して「慢」と表現されます。

「我慢が大事」と言われる事がしばしば御座いますが、この「我慢」も、仏教においては慢の一つに数えられます。

「我慢」と「忍耐・忍辱」は非なるものです。



このような「慢」の煩悩に支配されぬために、自己を調える術を身につけるのが肝要であり、仏教・仏法はその方法論や在り方を説いて下さいます。

現在でしたら、慢の煩悩に解説しつつ、慢に染まらぬ方法論や在り方を、小池龍之介さんをはじめとした僧侶の方々が、本にして伝えて下さっています。

参照:「小池龍之介さんの本で私が選ぶ3冊」

参照2:「マインドフルネスと瞑想の本3冊」



己の「慢・煩悩」を自覚することが、慢の煩悩に当てられない一歩目であると、私は頂いております。



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仏教用語と仏教的な言葉まとめ4の3:自己顕示欲

仏教用語と仏教的な言葉まとめをまとめた4回目の三つ目は、
:自己顕示欲・自己顕示
です。

参照:「自己顕示欲とは」

参照2:「自己顕示欲の意味と抑える方法を仏教から学ぶ」

参照3:「自己顕示欲の強い人の特徴と仏法」

参照4:「自己顕示欲の強い人の心理と仏教の智慧」



これは、仏教用語とは言えませんが、上の「傲慢」と共に考えるべき事柄であり、仏教・仏法に照らして頂いて、戒める事柄であろうと考え、掲載するに到りました。

傲慢であるから自己顕示欲がどんどん強くなる、あるいは自己顕示欲が強いから傲慢・高慢になっていく、と言う事も有りましょう。

ゆえに、今回を機縁とし、セットで考えるべき事として、受け取って頂ければ幸いです。



振り返ってみると、自己顕示欲・自己顕示という事柄について、4回も表題・テーマに上げてきたことに、我ながら驚いております。

しかし、それくらい言及しても、それでもやっぱり自己顕示欲が顔を出して、あわよくば自己を顕示したい、自分をアピールしたいという欲求は離れにくいものである、と日暮らしの中で感じる私であります。

私も、自己顕示欲を持っておりますし、以前は衒学の在り方も酷いものでありました。

今でも、お寺で御法話を賜る時に、「御法話を聴聞している自分は偉い」などと、邪な事、邪見驕慢な我が身を自覚して、なんとも煩悩具足の凡夫であるかと思い知らされております。



自己顕示欲という煩悩は、人であるならば誰しも備わる可能性がある煩悩であります。

「俺は自己顕示欲が無い」と豪語している人は、それが自己顕示欲なんだよ、と、突っ込みをいられることでありましょう。

幅はあるでしょうし、本当に謙虚で奥ゆかしく、自己顕示欲とは無縁に思える人も中にはいらっしゃるでしょうが、多くはないと勝手に想像しております。



誰しもが持ち得る自己顕示欲という煩悩は、持っているから悪い、というのではありません。

大切な事、肝要なのは、「自己顕示欲が顔を出す瞬間を見逃さず、自覚して己を調える事」です。

その事や方法論については、上の参照記事をご覧頂けましたら、把握して頂けるものかと存じます。

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仏教用語と仏教的な言葉まとめ4の4:幽霊

仏教用語と仏教的な言葉まとめをまとめた4回目の四つ目は、
:幽霊(ゆうれい)
です。

参照:「幽霊はいるかいないかを仏教から観る」

参照2:「幽霊を見る方法を仏教視点から学ぶ」



「なんでこれが仏教用語であり、仏教的な言葉であり、仏教的に学ぶべき事なんだ?」と、首をかしげる人もいらっしゃるやもしれません。

幽霊と言うと、ゴーストバスターズや映画「陰陽師」であったり、四谷怪談などの話であると思われる方が多いかと存じます。



幽霊と言えば、大抵が下の画像のような場面や幽霊像を、思い浮かべることでありましょう。

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柳の下に、人魂を携えて、長い髪をなびかせて脚は無い。

上の絵では、両手をゾンビよろしく手を前に足らしてはおりませんが、大抵が手を前に足らして、「ヒュードロドロ」という効果音と共に、出てくるものだと認識されています。



仏教に馴染みの無い人は意外と思われるかも知れませんが、仏教においては、占いもそうですし、幽霊の類いや迷信めいたに惑わされることのないように、と戒めております。

釈尊(お釈迦様・ゴーダマブッダ)に時代から言われている事で、日本の仏教においても、特に浄土真宗では占いや迷信、幽霊の類いに惑わされないようにと説かれています。



だから、心霊写真や心霊動画、心霊スポット巡りに現を抜かしていると、喝を入れられるか、お叱りという意味でのお説教を食らうことになるでしょう。

参照:「心霊動画を仏教視点で観る」

参照2:「心霊スポットに思う事|京都」

参照3:「心霊動画を仏教視点で観る」



そもそもとして、幽霊が心霊動画や心霊写真として映り込んでいると言われると、それこそ人間っぽいと思うてしまいます。

だって、肉眼(にくげん)で知覚できない人間のために、わざわざ存在をアピールするとか、それこそ上でお伝えした言葉「自己顕示欲」丸出しです。



幽霊とは、今を生きていない自分自身の有り様を表した言葉であり概念です。

幽霊については、上でお伝えした参照記事を元に、幽霊とはいかなる存在か、と言う事を改めて学び、自己を問うて観る事を提案致します。

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仏教用語と仏教的な言葉まとめ4の5:自業自得

仏教用語と仏教的な言葉まとめをまとめた4回目の五つ目は、
:自業自得(じごうじとく)
です。

参照:「自業自得の意味と英語表現」

参照2:「自業自得と自己責任」



自業自得とは、現在では「それこそ自己責任、自業自得だよ」と、何かをし損じたときに、更に追い打ちを掛けるような言い方で使われる事が多々あります。

現代社会においては、「自業自得=自己責任、因果応報」という解釈や認識が為されている風潮が御座います。



自業自得とは、本来は「自らの業による縁は自らに得る」と言う事で、良いこと悪いことの分別なく、業によって生じた縁を引き受けることを言い表す仏教用語・仏教語です。

テスト前にしっかり勉強して、高得点という結果となったのも、自業自得なのです。

ただし、もし学校で「おお、満点おめでとう、自業自得だね」とお祝い申し上げたら、複雑な顔をされるか「何いってんだこいつ」と、白い目で見られるかも知れませんから、このような使い方は憚られますがね。



禅僧であられる玄侑宗久さんは、「無功徳」という本の中で、「自業自得・自業他得・他業自得」と仰っています。

自分が行った事(業)による縁「業縁」は他にも及び、他の業が自分に影響する縁もある。

このことを的確に言い表して下さった言葉であると、私は味わっており、「諸法無我」にも通じる味わいを頂いております。



自業自得を、玄侑宗久さんが伝えて下さった三つの言葉と考え方・在り方は、無責任な行いを慎む戒めにもなろうかと頂く次第で御座います。



合掌

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