仏教用語と仏教的な言葉まとめ|二回目

有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。

このお堂(ブログ)で表題とさせて頂いた仏教用語も増えてきて、以前にまとめてさらりと復習出来るページをこしらえました。
237015 日常語として、一般的に使われるようになるまでさすらった仏教用語・仏教語というのは、意味も色々と変遷して、日常的に使われている意味や認識のされかたも、違うものも多々あります。

仏教用語である言葉の変遷や、語源なり由来を辿る事で、教養としての味わいや面白さも感じられることで御座いましょう。



今回は、このお堂(ブログ)で取り上げさせて頂きました仏教用語をまとめた、二回目とさせて頂きます。

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仏教用語の復習まとめ2の1:一期一会

仏教用語まとめて復習2回目の一つ目は、
:一期一会(いちごいちえ)
です。

参照:「一期一会の意味と禅語の智慧」



一期一会は仏教用語であり、特に禅語として紹介される言葉です。

茶の湯・茶道の世界では、おもてなしの精神を育む時に用いられます。

「このお客様とは、もう二度と合う事が無いかも知れない、だからこそ、この1回のおもてなしに全身全霊を込める」という、緊迫感のある意味を味わう事となります。



仏教用語・禅語としての一期一会の意味は「この瞬間に出会った人と、この先二度と会うことがない」ということで、現在使われている雰囲気からすると、随分と切迫感があるように思えます。

戦国時代、まだ戦いの時代が続いていた頃は、それこそいつ果てるとも分からぬ命という上京でしたから、一期一会に切迫した感覚を持っていた人がいても、不思議では御座いません。

それを思うと、現在は日常的に使われるようになりまして、そこまで切迫した語感を持つ言葉ではなくなっております。



仏教では「諸行無常(しょぎょうむじょう)」を説きます。

故に、人と人との出会いだけでは無く、まさに「今、この瞬間」も一期一会である、私はこのように「一期一会」を味わい、頂いております。

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仏教用語の復習まとめ2の2:我利我利亡者

仏教用語まとめて復習2回目の二つ目は、
:我利我利亡者(がりがりもうじゃ)
です。

参照:「お金を稼ぐ方法を教える系の我利我利亡者にもの申す」



我利我利亡者は、現在でしたら特にネットビジネス系、なんちゃらビジネスのコンサルタントを名乗る輩や、自己啓発系ビジネスの類いなど、この辺りで沢山観測することが出来ます。



これらの類いは、「お金を沢山取るけれども、責任は取らない」という特徴があります。

お客様に対してお金だけ取って「あなた次第」とか「行動しないから悪い」とか、言い逃ればかりしている自称コンサルタントなどが当てはまる種族です。

いわゆる「稼ぐ系」でコンサルタントを名乗る詐欺師に、顕著に観られます。

逃げる言い訳と自己正当化する理論武装だけはいっちょ前です。



「金銭のやり取りは成功報酬で、成果が出たらお客様が踏ん張って下さったからこそ、成果が出ないのはコンサルタントである自分の不備であり自分の責任」と、堂々と言えば格好良いのですがね。

本当に実力と自信が備わっているならば、堂々と胸を張ってこのように言えるでしょうに。

それが出来ないのは、「本当は実力も自信も無いけれど、お金だけ欲しいから先に盗っておき、責任は一切取りたくない」という事の現れでありましょう。



ついでに言っておきますが、コンサルタントをしている輩が「コンサルを受けても稼げない人の特徴」とか言って、ごちゃごちゃ言っていたりブログに書いているのを見かける事があります。

あれがまさに、「私にはコンサルティングする能力、人を導く力ががありませんよ」という事を表すみっともない言い訳です。

そういう輩が目を覚ますためにも、我利我利亡者の大好物である餌「お金様」を与えないようにして、生暖かく見守るのが宜しいかと存じます。



我利我利亡者の出所は、仏教の物語「ジャータカ」にあります。

「ジャータカ」に「マイハカ鳥」という話があるのですが、このように記されております。

「マイハカ鳥が、ピッパラ(菩提樹)の樹枝にとまって熟れた実を「我利」「我利」「我利」と食べている」

どんなに実を食べても、我利我利と自分のためだけに、我が利するためだけに熟れた実を食べている、ということです。

人に分け与えるなどという発想が、全くもってありません。

先に人様から財産を奪い取って、責任は一切取らないなんちゃらコンサルタントや自己啓発系ビジネス講師の類いの特徴そのままです。



このような亡者にならず人であり続けるためには、反面教師として観ておき、己を戒める材料としたいものであります。

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仏教用語の復習まとめ2の3:上品

仏教用語まとめて復習2回目の三つ目は、
:上品(じょうぼん)
です。

参照:「上品な人の特徴」



現代社会で使われる「上品」は「じょうひん」と読み、意味は「所作や身なり、服装が整っている人」「言葉遣いが丁寧な人」と言った辺りでしょうか。

「丁寧な人」と同義的な意味を感じます。



仏教における「上品」は「じょうぼん」と読みます。

「上品(じょうぼん)」は、浄土宗や真宗・浄土真宗が大切に読む御経「観無量寿経」九品(くほん)」が説かれております。

九品」には、「上品上生」から「下品下生」まであり、それぞれに印も御座います。



現代的にも仏教的にも、「上品」でありたいものである、というのは、これまた人間の物差しによる煩悩でありましょうかね。

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仏教用語の復習まとめ2の4:不退転

仏教用語まとめて復習2回目の四つ目は、
:不退転(ふたいてん)
です。

参照:「「不退転」と「知事」という仏教用語の意味」



不退転という言葉は、現代社会では特に政治の世界で時々聞く事が御座います。

「不退転の決意」と言う言葉を、政治関連の報道で見聞きした人も多いのではないかとお見受け致します。

恐らく是は、「退路を断って突き進む」とか「退かない決意」という意味で使われておることでありましょう。

だったら、「退かぬ決意を致します」と、そう言えばもっとわかりやすく伝わるのになあ、と、私は思うところがあります。



「不退転」も、仏教用語・仏教由来の言葉であり、仏教の言葉として頂くと、特に浄土仏教においては「不退転の決意」と言われると、首をかしげることも御座います。



不退転の意味は、「退転する事がない」です。

そして、浄土仏教において、例えば浄土宗では「不退の浄土」「自致不退転(じちふたいてん)」という言葉が御座います。

これは、人が決意する事によって浄土往生が決まるわけでは無く、阿弥陀仏のお導き、お働きによって、往生決定(おうじょうけつじょう)する、ということです。

人の賢しらな思考で、勝手に不退転を決意する事では御座いません。

ゆえに、「不退転の決意」と言われると、「阿弥陀仏のお導きやお働きを、人間側で賢しらに、勝手に決める意を宣うとはこれいかに」と思う人がいても、頷けます。



浄土仏教において「不退転」という仏教用語は、とても有り難い響があります。

退かないと決意したのであれば、素直に「退かない決意を致しました」と言うのが、私は無難だと思うのですが、如何でしょうか。

仏教用語の復習まとめ2の5:させていただく

仏教用語まとめて復習2回目の五つ目は、
:させていただく
です。

参照:「させていただく症候群と正しい敬語についての話」

参照2:「「させていただく」の使い方|正しいか間違いか」

参照3:「「させていただく」と「おかげさま」の功徳」



これは、厳密には仏教用語ではないような気が致しますが、仏教とも関わりがある言葉ゆえに、こちらで改めて紹介する事に致しました。



「させていただく」や「させていただきます」というと、現代、特に国語の世界では「正しい敬語か間違った敬語の使い方か」という議論の対象となるでしょう。

敬語表現としては、「させていただく、という表現は、誰かの許可を頂いて、その恩恵に対する感謝の意」という意味があり、謙譲語と合わせて使うと、二重敬語として慇懃無礼だと言われる事もあります。

ビジネスマナー講習やセミナーでは、このような説明を受けて、矯正されることでありましょう。



ただ、この「させていただく」というのは、浄土仏教、真宗・浄土真宗の教義に基づいた使い方をする人もいらっしゃり、私も浄土宗の檀家で阿弥陀仏のお働きを大切にさせて頂いておりまして、使わせて頂いている表現です。



お念仏の教え、阿弥陀仏を尊ぶ生き方・在り方を大切にした商い人に、「近江商人(おうみしょうにん)」と呼ばれる商人の歴史があります。

司馬遼太郎さんの本を読まれた人や、浄土真宗の御法話を聴聞し続けている人ならば、よくご存じであるとお見受け致します。



この近江商人と呼ばれる人達は、例えば帳簿を付ける時も「帳簿を付けさせて頂く」というもちまえ・態度です。

帳簿は一見すると、自分で付けるものであり、別に誰かの許可を必要とはしません。

そりゃ、店長と弟子がいて、「店長、今日は私に帳簿をつけさせてもらえませんか?」と、そのような関係性においては、現代的な「させていただく」の意味も御座いましょう。

でも、一人で店を開いて商う近江商人が、自分で帳簿を付ける際も、「帳簿をつけさせていただく」なのです。



これは、「阿弥陀様に帳簿を付けさせていただく」「阿弥陀様に顔向けできないような恥ずかしい事はしないで、真摯に嘘偽り無く帳簿を付けさせて頂く」という意味も御座います。

真宗・浄土真宗では、阿弥陀仏の呼びかけが届いている、という教えです。

構造を言えば、阿弥陀仏という自己以外の存在、非己が常に届いて下さっている、という解釈もなせることです。

故に、「させていただく」のは、阿弥陀仏ありきの事であるのです。



この話については、過去にお伝えした事を、もう一度復習して頂ければ、味わって頂けるかと存じます。



私は、真宗・浄土真宗門徒や近江商人でなくても、「させていただく」という在り方を大切にしたいと思うております。

人は関係性の中で生きている、という仏教が説く事にも当てはまりますし、何より、他者意識を常に持ち、我利我利とならぬための謙虚さを育む在り方です。

「させていただく、の使い方を間違えているぞ」と、正しさを追求するのも、それはそれで大切な部分も御座いましょう。

しかし、それはそれで教養や社会通念として学び伝えつつ、一方で「させていただく」にある大切さも育みたい、そのように考えるところに御座います。
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仏教用語まとめはこちらにも御座います

今回お伝え致しました仏教用語の他にも、テーマを設けた上でまとめた仏教用語集も御座います。

また、一回目の仏教用語まとめもありますから、そちらもお使い頂ければ、嬉しゅう御座います。

参照:「仏教用語まとめ|一回目」

参照2:「仏教用語まとめ|仕事編」

 

あなたの教養となり、また仏教・仏法に触れる機縁となりましたら、大変嬉しゅう御座います。



合掌

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