有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。
私は、ちょくちょくと映画を見に行くことが御座いまして、「バケモノの子」も、映画館まで観に行った事が御座います。
細田守監督の映画は「時をかける少女」から、全て映画館で観てきており、地上派放送のタイミングも、割と早い段階でなされるのかなあ、と思うておったり致します。
「バケモノの子」に至っては、まだ1年と1週間くらいしか経過していませんが、金曜ロードショーで地上は初放送がなされますからね。
最近はレンタルDVDなりBlu-rayになるのも早くて、映画館で観る必要が無いという人がいても、不思議とは思えないものであります。
バケモノの子の感想は「私にとって仏教・仏法も学べた作品」
映画「バケモノの子」は、金曜ロードショーで地上派放送されますから、それに準じて、いわゆる「トレンド系」のブログなりサイトが、ネタバレ感想やまとめた事を書いてくれるでしょう。よくある「調べたけどわかりませんでした。」とかいう、例のやつです。
ゆえに、あらすじやネタバレがどうのこうのについては、そちらに譲っておくとして。
私は私が学んだ事、仏教者の視点によって考えるに至ったことと共に、あなたにも仏法に触れて頂ければと思い、こうして筆をとりました、もとい、キーボードを叩くに至った次第です。
映画「バケモノの子」は、私は仏教と再開してから視聴した映画ですから、それゆえに見方も仏教的であったり、仏法をそこから拾い上げて学ぶという見方となっておりました。
あくまで、これは私の映画の見方であり、映画を観た後の感想も仏教・仏法を学んだという事に傾倒する特徴の言い訳でもあります。
率直な感想としては、私は純粋に物語りとして楽しめましたし、映画館で観て有り難かったなあ、と思うたものです。
映画好きの僧侶お二人の対談本「仏教シネマ」で、「映画館は是非映画館で」という言葉を、改めて「確かに、仰る通りかも」と、再確認したというのが、率直な感想です。
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まあ、仏教的要素がないと言いますが、登場人物にお坊さん・百秋坊という僧侶がいるのですがね。
それに、九太の本名は「蓮(れん)」で、これは「蓮華(れんげ)」「蓮(はす)」を連想する言葉であり、ここにも仏教的要素を感じていたりします。
仏教的要素や仏法を学んだ、という事に関しては、「バケモノの子という映画から、仏法に気づいた」とも言い換えられます。
ゆえに、勘の鋭い人ならば、今回のURLの英語の部分で「感想」を「impression」ではなく「remark(感想・気づく・認める)」としたことに気づかれたでしょう。

バケモノの子の感想とそこから学ぶ仏法1:育てて育てられる関係性
映画「バケモノの子」において、私が学んだ仏法の一つ目は、:育てて育てられる関係性
です。
これは、ネタバレ感想ではありますが、物語の序盤で主役の九太(蓮)が、師匠の熊徹の弟子になって、武術の修行をしていく場面で観られます。
九太(蓮)と熊徹の関係性は、師匠と弟子ではありますが、およそ言葉遣いは弟子らしくない九太(蓮)ではあるのですがね。
それはともかくとして、修行の中で九太(蓮)は熊鉄の動きを真似するようになり、そこで足捌きを習得します。
そして、それから熊徹は攻撃を九太(蓮)に教え、足捌きは九太(蓮)が熊徹に教える、という関係性が成されて、17歳まで修行が続いて行くのです。
この二人の関係性を観て、私は「育てて育てられる」という事を考えました。
普通、師匠から弟子へ何かを教え伝える時、特に現代の学校教育では、先生が生徒に物事を教えます。
これは、なんだか一方通行的ですね。
もちろん、このような教育も疎かにして良いという話ではありませんし、教育が大切な時もあるでしょう。
ただ、教育をする上でも、私は「育てている方も、教えている方も教えている相手から教わる」という精神性や在り方も大切なのではないか、そう思うのです。
「バケモノの子」なら、足捌きを習得した九太(蓮)と熊徹が、お互い得意な事を教え合うというのは、まさに「育てて育てられる関係性」であると、私には思えるのです。
教えているようで実は教えられている、育てているようで実はこちらが育てて頂いている、そのような関係性は、伝承なり教育・教化においては観られる事柄です。
このことを、九太(蓮)と熊徹の関係性から学び、物事を教え伝える立ち位置にいらっしゃる人は、特に覚えて置いて欲しい、と感じるところで御座います。
バケモノの子の感想とそこから学ぶ仏法2:楓の言葉
バケモノの子の感想と、そこから学べる仏法の二つ目は、:楓の言葉「誰だってみんな等しく闇を持っている。」
です。
これは、九太(蓮)が、楓と共に終盤で闇に飲まれた一郎彦と対峙する際、楓が一郎彦に放った言葉です。
この後
「誰だってみんな等しく闇を持っている。蓮くんだって抱えてる。私だって、私だって、抱えたまま今も一生懸命もがいてる。」
と続き、バケモノの子の名言として語る人もいらっしゃいます。
ここで「等しく闇を持っている」というところに仏教的要素を感じた、というのが私の感想です。
誰もが「等しく闇を持っている」という部分を、仏教の言葉で表しなおすと「無明(むみょう)」もしくは「無明闇(むみょうあん)」という言葉が当てはまりそうです。
誰しもが、無明の中にいる凡夫であり、これは釈尊(ゴーダマブッダ)の時代から言われていた仏教の言葉です。
仏教には「十二縁起」あるいは「十二因縁」という概念が御座いまして、その最初にあるのが「無明」なのです。
この「無明」とは「迷いや煩悩の中にいること」を言い表します。
ちなみに真宗・浄土真宗の勤行で称えられる「正信念仏偈」では、
:已能雖破無明闇(いのうすいはむみょうあん)
とあり、「無明闇」と、どんぴしゃりで出て来ます。
私たち一人一人は、どうしようもない無明、つまり煩悩や迷いがあり、人生において全く迷いが無いという人は、なかなかいらっしゃらないものでありましょう。
この文字をお読み頂いているあなたも、色々と人生において経験されてきた中で、煩悩や迷いが生じたりしたことが、あるのではないかと思い受け致します。
もちろん、それを決めつけることは出来かねますし、決めつけてしまうのは私の愚かなる慢の煩悩にしかなりません。
しかし、「俺は、私は、絶対に迷ったりしないし煩悩は無い!」と、言い切れるでしょうかね。
バケモノの子において、前後のシーンや文脈から、恐らく楓は己の煩悩や迷い、どうしようもない無明について自覚しているのではないか、と私の目には映りましたし、そのような感想を持った次第であります。
楓の台詞には、
「簡単に闇に呑み込まれたあなたなんかに、蓮くんが負けるわけない、私たちが負けるわけないんだから!」
と、続きます。
「己の無明に気づく事、これすなわち無明に灯を灯すことなり」と、私は味わい頂いております。
ゆえに、楓も蓮も、己の闇に気づいたことで、無明なる己の闇に灯を灯しているということから、闇に飲まれず受け止められる人物像を、私は見出しております。
こうしてみると、映画「バケモノの子」から、仏教・仏法を見出し学べるのではないかと思うておるのが私の感想でさりますが、如何でしょうか。
バケモノの子から仏教・仏法を学んだ感想から思う事
私は、映画「バケモノの子」から、仏教・仏法を学び、それに準じた感想を思っております。これは、私が仏教徒・仏教者という事が色濃く、そういう色眼鏡なりフィルターを持っているからでしょう。
別の宗教ならば、それに準じた見方なり感想を持たれるでしょうからね。
ただ、「バケモノの子」に限らず、私は、人は映画やフィクション作品から、何らかの宗教性を見出したり、宗教的パトス(精神性)を感じたりすることがあるのではないか、そのような事も思うのです。
この辺り、上でお伝えしました「仏教シネマ」でも、本の中で二人の僧侶が話されていたと記憶しております。
「バケモノの子」が気になって、このお堂(ブログ)に辿り着かれたならば、そのような事を念頭に置いて、一度映画を観たり、見直すのも良いかも知れません。
そうすることで、新たな発見なり学び、違った角度の感想を抱いて、あなたの進化に一役買いそうな気が致します。
ちなみに、世の中には仏教を感じられる宗教映画や、宗教性の強い映画もありますから、これを機会に触れてみるのも、新たな世界が開けるかも知れませんね。
昔の作品なら「空海」や「親鸞」もありますし、最近でしたら、曹洞宗の開祖・道元禅師を映画化した「禅-ZEN-」や、「僕は坊さん」もあります。
そういえば、金曜ロードショーで「バケモノの子」が、地上は初放送されますが、同じ時間にワンピースの映画も放送されるようですね。
ワンピースからも、宗教性なり仏法を学ぶ人も、いらっしゃるかなあ、と考えて見る今日この頃に御座います。
合掌