歩きスマホや自転車スマホを戒め事故対策となる仏教の智慧

有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。

あなたは、移動中にスマートフォンを弄る「歩きスマホ」や「自転車スマホ」をしてはいませんか?
466523 つい先日も道を歩いている時に、スマートフォンを弄りながらヘッドフォンも繋げて自転車で走行している人を見かけたことがあります。

その時は、丁度交通整理をしていた警察官が「やめなさい!やめなさい!」と、その人に注意していましたが、結局スマホを弄りながら自転車に乗って去って行く場面を目撃しました。

事故防止のために、警察官が対策として注意してらっしゃいますが、なかなか減らないものでありますし、無視してしまう人がいるのを目の当たりにしたものです。



歩きスマホや自転車スマホは、事故の原因にもなりますし、実際に「歩きスマホ中に、マンホールの中へ真っ逆さま」という事例も報告されています。

事故防止の対策という実利面においても、歩きスマホも自転車スマホも、辞めておくべき行為です。



更に、私は仏教の視点や禅的な意味においても、これは如何なものかと思う行為であります。

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歩きスマホや自転車スマホなど「ながら歩き」「ながらスマホ」は事故の確率が高まり危険

仏教や禅の視点からみる「歩きスマホ・自転車スマホ」の話を致します前に、実利的な話からさせて頂くことに致します。



歩きスマホや自転車スマホの対策として、法律や条例を整備して罰金なり罰則を設けるべきだ、という意見も出ております。

現在、運転中のスマートフォンや携帯電話の使用は罰則規定がありますから、その流れから自然と出てくる意見でありましょう。

アメリカ合衆国のニュージャージー州では、歩きスマホは罰金を取られるという条例があり、すでにこうして事故防止の対策措置として、罰則規定の前例があります。

そうなると条例制定のために海外視察の話もありそうなものです。



最近でしたら、「ポケモンGO」が、この辺りの課題と共に、物議を醸しております。

恐山など、ポケモンGOを禁止する場所が出てくるのも、分かる気が致すところであります。

私の感性と致しましては、恐山でポケモンGOをするという事について、実利面だけでなく、パトス(精神性)においても、問いを投げかけるところで御座います。



歩きスマホや自転車スマホが、何故ここまで否定的な見方をされるのか。

それは、単純に「事故を起こす危険性・確率が高まり、危険だから」です。



実利的な話として、歩きスマホや自転車スマホなど、自分の身体を使っての移動中に、別のことに気を取られている状態は危険です。

余所見をしていて人や物にぶつかったという経験って、誰でもあるのではありませんか?

足元に注意していても、躓いたり目測を誤ることさえあるのが人間です。

事故を起こさない対策を意識して注意していても事故は起こるのですから、移動のための集中力を分散させている状態では、そりゃ事故も起こりますがな。



小難しい事を抜きにして、歩きスマホや自転車スマホなどの「ながら歩き・ながらスマホ」は、単純に危険だから、戒める標語なり呼びかけがあるのです。



それに、歩きスマホ・自転車スマホをしていて、誰かにぶつかったとして、それで暴力沙汰になるケースもあります。

現在は、歩きスマホをしている人を狙った当たり屋などの事件もあります。

やられた方は、歩きスマホや自転車スマホをしていたという事で責任を追及されて「確かに・・・」と、罪悪感から当たり屋詐欺に金品を奪われるという隙を作ってしまいます。



もちろん、詐欺を働く亡者が悪ですし、そのような詐欺は弾劾すべき対象ではあるでしょう。

その上で、そのような詐欺に遭遇する確率を減らすためにも、歩きスマホや自転車スマホは、断じて行わないという対策や在り方が問われます。



このような実利的な問題があることを、まずは前提としてきっちりと抑えておくべきです。
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歩きスマホや自転車スマホを仏教の視点や禅の世界観から観て事故防止対策を考える

歩きスマホや自転車スマホについて、実利的な不具合をお伝えしたところで、今度は仏教や禅の視点から、何故この行為がいけないことなのかを観ていきましょう。



仏教、特に禅の世界では、一つの事に集中する大切さを説いています。

それを一言で教え伝えてくれる禅語が、
:一行三昧(いちぎょうざんまい)
です。



この場合の「一行(いちぎょう)」というのは、文章を書く際の「一行」ではなくて「一つの行い」という意味です。

つまり「一つの行いそのものになり切っている状態、集中している状態」という意味・解釈です。



例えば、勉強に集中しなければいけないのに、あっちへふらふら、こっちへふらふらとしている状態は、全くもって一行三昧ではありません。

勉強中は、目の前の課題に取り組むことになりきる、それだけを行うのが「一行三昧」の在り方です。

この場合は「勉強三昧」ですね。

そして、勉強が一段落したり、課題が終わって休憩を取る場合は「休憩三昧」を為すのです。

この事を元にすると「メリハリを付ける」というのは、禅の智慧が活かされている事となり、まさに禅の実践と言えるでしょう。



これを踏まえると、歩きスマホや自転車スマホは、移動する事に全然集中していない状態です。

歩くときに観るべき場所が見えておらず、危険を目視することも怠った状態です。

鉄の塊と言われている車が高速で動く現代社会において、歩くときは歩く事に集中し、自転車に乗るときは自転車に乗ることに集中すべきです。



このように、安全面という実利的な事柄においても、仏教・禅の視点から観ても、歩きスマホや自転車スマホは即刻辞めるべき、そしてやらないように戒めるべきです。



これを「マルチタスクだ」と格好付けて、そのあげく階段から転げ落ちたり交通事故に遭われても、痛い思いをするだけです。

もっとも、現代の交通事情を考えれば、痛い思いだけで済んで、現世にとどまれたのであれば御の字でありましょう。



「あ、今メールが来た。ちょっとメールを確認するだけだから大丈夫。」と油断が生じれば、大惨事を引き起こしかねないということを、肝に銘じて置きましょう。

歩きスマホや自転車スマホなどの「ながらスマホ」をしない私の事故防止対策の実例

134765 私はスマートフォンは持っておりませんが、仕事の関係上、携帯電話は持ち合わせております。

ただ、これもほぼ着信専用機と化しており、よく充電しっぱなしで自室に置いたまま出かける事もしばしばあります。



歩きスマホや自転車スマホをしない、最も確実な方法は、
:そもそもスマートフォンを持ち歩かない、持って外出しない
ことです。



しかし、流石にそれだとスマートフォンや携帯電話として機能しないでしょうし、何のためのスマートフォンだ、という話にもなりかねません。

そうなると、やはり外に持ち出すことになるわけですが、そこでは節度を守った使い方と、歩きスマホや自転車スマホの様な「ながらスマホ」をしない工夫をして、己を律する必要があります。



スマートフォンではなく、携帯電話で恐縮ですが、私の外で携帯端末を使う場合、以下のことを実践しております。

私の場合は、そもそも使う機会があまりないのですがね。



:移動中は手に持たない
:使う場合、閲覧する場合は必ず立ち止まる
:立ち止まる場合は、他者の通行を妨げない場所まで移動する



私が外で携帯電話のお世話になる場合、最低限これらの事を戒めて使っております。

移動中、歩いている時には手に持たないから、必然的に歩きスマホは出来なくなります。



そして、使う場合は必ず立ち止まり、人通りの少ない場所、隅っこの方まで移動します。

立ち止まる場所も考えないと、特に一通りの多い歩道や道路では、通行の妨げになりますし、大変危険です。

コンビニエンスストアの椅子などがあれば、そこまで移動すると良いでしょう。

そうする事で、他者の通行を妨げることもありません。



ここまでお話しさせて頂いた事を総合的に考えると、
:他者を思いやる
:電話するときは電話に、歩くときは歩く事に集中する
という、仏教・禅の智慧を実践すれば済む話に思えてきました。



他者のご迷惑とならない、他者の移動を妨げない事に注意すれば、自ずと歩きスマホや自転車スマホも減っていくような気がします。

他者への慈悲・思いやりという仏教の智慧は、文明の利器の使い方にも力になってくれる、まさに生活の智慧であると私は思うところであります。



尚、スマートフォンの使い方や付き合い方、距離感の鍛錬につきましては、こちらでも話をさせて頂いております。

参照:「ながらスマホは丁寧な暮らしの対極と心得る」

参照2:「スマホ依存症の治し方や克服方法」



あなたとスマートフォンとの距離が、適切であるようになる一助となり、事故を起こさぬ対策となりましたら、嬉しく思うところで御座います。



合掌

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