傲慢の意味を宗教から学ぶ|嫌な奴にならないための注意と智慧

有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。

あなたは「傲慢(ごうまん)」という言葉の意味をご存じでしょうか?
378824 「あの人って傲慢だよね。」「あいつは傲慢な人だから付き合いたくない。」とか、悪い意味で使われる事が多いであろう言葉と概念です。

傲慢な人というのは、宗教を学んだり、仏教を学んで毎日のように御法話を聴聞している人でもおるものです。

以前も、東本願寺で御法話の際、他人をお前呼ばわりして、「俺は自主的にこんな事をしているんだ」と、人様を見下しておごり高ぶったじいさんを目撃しました。

もっとも、そのような人を「傲慢だな。」と思う私も、傲慢という煩悩に毒されているのではないか、と自覚し反省し懺悔(さんげ)する次第であります。



修行が足りない。



自己の反省と、傲慢な人にならないための智慧として、今回は「傲慢(ごうまん)」という慢の煩悩について、意味を学びなおす事を試みます。

スポンサーリンク

傲慢の現代的・国語辞典的な意味と宗教的な意味

「傲慢(ごうまん)」という言葉は、国語辞典的な意味は
:奢り高ぶり、人を見下すこと
とあります。



おごり高ぶる、という意味から「高慢(こうまん)」という表現もしばしばされますね。

高慢は、
:思い上がって人を侮る、思い上がり自惚れて昂ぶっている
というのが、国語辞典的な意味です。

更に語源辞典には、
:高(たかぶる)+慢(おごりあなどる)
とあります。

「傲慢」も「高慢」も、ほぼ同じ意味と観ても良いでしょう。



どちらにせよ、あまりよろしい意味では用いられない言葉と概念である事は、現代社会での使われ方を観ても、把握出来るのではないかと存じます。

おごり高ぶって、他人を見下すわけですから、確かに「傲慢な人」にはなりとう御座いませんね。



しかし人間、いついかなるご縁で、おごり高ぶって人を見下す傲慢な人、高慢な人間になるかは、わかったものではありません。

親鸞聖人が仰る「人を傷つけないのは、己が善人だからではなく、たまたま人を傷つけないご縁に恵まれているだけだ。」という言葉を、戒めとして持っておきたいものです。

傲慢の意味を宗教から学んで観る

傲慢や高慢という言葉の意味は、国語辞典的な意味は理解出来ました。



宗教に詳しい人ならば、ここで「そういえば、傲慢とか高慢って、七つの大罪にあった気がする」と、連想されるやもしれません。

イタリア文学に詳しい人なら、ダンテの「神曲」に「煉獄山の七つの冠」がありますから、それで知っているという人もいらっしゃるのではないかとお見受け致します。



そういえば、現世を離れた世界観って、洋の東西に限らず著した人がいるというのは、宗教学・比較宗教学的に観ても興味深いと私は思うております。

西洋では1300年頃にダンデという哲学者で詩人が「神曲」を、東洋・日本では985年頃に源信和尚が「往生要集」を著していますからね。

彼らの地獄極楽の世界観が今にも続いているというのは、実に興味深い。



話が逸れましたが、「傲慢」「高慢」の言葉や概念については、西洋の宗教と仏教にも御座います。

そこで、教養としてここではキリスト教の側面から、そして仏教の側面から、それぞれ観ていく事に致しましょう。
スポンサーリンク

キリスト教における「傲慢・高慢」の意味と概念

最初にお断り、と言いますか言い訳をさせて頂きとう御座います。

家族にもキリスト教を学んできた人がいるにはいますが、私自身はキリスト教をよく知りません。

私、近所の教会でクリスマスイヴにだけ協会関係者の方と話をすることはありましたが、教義について詳しく話を聞いたわけではありません。

ゆえに、色々な本を読んだり話を聞いたという程度の知識で恐縮ですが、ご理解頂ければ幸いです。

キリスト教の「隣人愛」や「赦す」という宗教性は、仏教徒共通する部分もあるなあ、と頂いておったりしますがね。



話を戻します。



キリスト教における「傲慢」や「高慢」は、カトリック教会における「七つの罪源」として記されています。

日本語では「高慢(pride、ラテン語ではsuperbia)」とあり、傲慢や高慢は七大罪、七つの罪源として記されているようです。

「七つの大罪」との結び付けを観ると、傲慢・高慢はルシファーと結びついておるようですね。

そして、傲慢・高慢の対となっている言葉と概念は「謙譲」とあります。

日本でも、「傲慢な人」の反対語としては「謙虚な人」というのがしっくりくる気がしますし、この辺りの概念は理解しやすいかと存じます。



ちなみに、この「七つの大罪」や「七つの罪源」は、「罪源」という言葉が重要であると考えております。

罪を犯す源となり得る煩悩なり欲望、パトス(精神性・感情)という見方をすれば、自ずとその事がみえてくるのではないでしょうか。

傲慢・高慢などの「七つの大罪・七つの罪源」は、人である以上どうしようもなく内在している概念である、と私は頂いております。



このことは、次にお話しさせて頂く仏教の慢の煩悩にも通底する事柄にも思えてきます。
261480

仏教における傲慢・高慢の意味

仏教における「傲慢」や「高慢」という言葉の意味と概念は、唯識を学んでいる人なら馴染みがあるかもしれませんね。

仏教における慢は「煩悩」の一種とされており、これを仏教的に紐解き意味を理解するには、「6つの煩悩」を学ぶとわかりやすいでしょう。



煩悩には、このお堂(ブログ)でも何度か取り上げた「三毒」と呼ばれるものに加えて、「慢、疑、悪見」を加えたのが、仏教の「六つの煩悩」と呼ばれております。

三毒とは「貪欲(とんよく:むさぼり)、瞋恚(しんに:怒り)、愚痴(ぐち:愚か)」のことです。



「慢、疑、悪見」については、真宗・浄土真宗のお勤めを毎日されている人なら、正信念仏偈(正信偈)で毎日称えられているかもしれませんね。



正信偈では、七高僧を称える(たたえる)前の部分に
:邪見驕慢悪衆生(じゃけんきょうまんあくしゅじょう)
とあります。

「人というのは常識(世間の物差し)で判断する性分であり、宗教も自分都合だったり、自分に都合の良い判断や解釈をしてしまうものです。」
という意味の7文字です。

ようするに「邪な見方をしたり、自分都合で傲慢な人間」の性質を言い表した言葉です。

「驕慢」とは、傲慢や高慢と同じ意味で、正しくは「立心偏に喬」ですが、機種依存文字のために「驕」を使わせて頂いております。



ここで豆知識を一つ。

ATOKで文字変換している人は、「おごる」で変換してみて下さい。

「驕る」「傲る」と出て来ますから、言葉の意味や関連性がみえるでしょう。



仏教における傲慢や高慢といった「慢」の煩悩についての大まかな意味は、このようなところであります。

慢についての話は、小池龍之介さんが色々な本で何度も伝えて戒めて下さっています。

参照1:「小池龍之介さんの本で私が選ぶ3冊」

参照2:「小池龍之介さんの情報まとめ」



小池龍之介さんの本で、慢の煩悩について学べる本と言えば、「平常心のレッスン」が、読みやすいかな、と勝手に思うております。

平常心のレッスン [ 小池龍之介 ]
価格:820円(税込、送料無料)



私は運良く近所のブックオフで手に入れる事が出来たご縁に恵まれましたが、新書で新品でも1000円以下です。

ちなみに、仏教では「平常心」「びょうじょうしん」と読みます。
305769

仏教の慢は7種類ある

仏教における「慢」の煩悩は、7種類あります。



簡単にまとめておきますね。



慢:傲慢・高慢な煩悩、小池龍之介さんの英語訳は「プライド」

過慢:同等に対しては「自分の方が勝っている」、上等な人には「自分と同等だ」とすること

慢過慢:自分より優れた人に対して「自分の方が優れている」とすること

卑慢:自分よりも凄まじく優れた人に対して「ちょっと劣っているだけ」とすること

我慢:自分は常である、変わらないとすること、自分だけは諸行無常ではないとすること

増上慢:悟っていないのに「自分は悟った」とすること

邪慢:徳が無いのに「自分は徳のある人間である」とすること



以上が7つの慢です。

どれをとっても「こうはなりたくないな」と思うのは、現代人特有ではないと思いますが、如何でしょうか。



ちなみに、特に現在のある特定の職業を自称している亡者には、顕著に見られる慢の煩悩です。

7つ全部当てはまる悲しい亡者もおって、憐れを通り越して、いっそ清々しいくらいだと思う程の事例も何度か目にしました。



ああ、こういう色眼鏡を持っているのも、私が「慢」の煩悩にしてやられた、傲慢で高慢な煩悩具足なる凡夫であるが故だと、また反省し懺悔する次第であります。

本当に、修行が足らん、修行が、足りない。



合掌

スポンサーリンク
  • このエントリーをはてなブックマークに追加