傲慢な人から謙虚な人になるエトス

有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。

あなたは、傲慢な人か謙虚な人か、どちらの人とお付き合いしたいと思われますか?
388009 私でしたら、傲慢な人よりも謙虚な人とお付き合いしたいと考える次第であります。

そうはいっても、そもそもとして私自身が傲慢であったり、なんとも煩悩具足なる凡夫であるかということに、毎日気づかせて頂く次第ではありますが。



なんとか、法然上人がのこしてくだすった御教えや御言葉を味わいながら、奥ゆかしさという意味も含めた謙虚さを学び実践する毎日に御座います。

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傲慢な人から謙虚な人になれるのか

傲慢な人から謙虚な人になりたい。

傲慢な人とは付き合いたくないし、出来れば謙虚な人とお付き合いがしたい。

このように願う人は、個人主義的な昨今の世の中において多いのではないかと存じます。



人間というのは、どうしたって「自分が一番可愛い」という自我を持っているものです。

このことについては、サンユッタニカーヤという仏典で、パセーナディ国王とマッリカー王妃の会話、そして釈尊の説法にも観られます。



現代社会は個人主義的傾向があるように見受けられ、自己主張、私が思うには「自我主張」「我を張る」という人が多く、傲慢な人はそこら中にいるような、そんな気配すら感じます。

特に、インターネット上の詐欺コンサルタントやなんちゃら塾、自己啓発系ビジネスの輩などは、その傾向が顕著ですね。

情報発信しているブログやメールマガジンなどからも、傲慢さがにじみ出ておりますし、言葉の端々に傲慢さを読み取ることが出来ます。

「稼がせるのが得意」「稼がせる天才」とか宣ったいるのは末期症状であり、傲慢な人を通り越して、我利我利亡者という人をやめてしまった憐れな亡者の姿です。



仏法を毎日熱心に聞いているであろう人の中にも、そんな人いますからね。

東西の本願寺で御法話を聴聞させている時にも、そういった出しゃばりだったり自我主張が強かったり、偉そうで傲慢な人を見かけたことありますし。

見ず知らずに人に対して、お前呼ばわりするじっちゃんもいたものです。

あまつさえ「若い者は自分から動かない、老人でありながら動く自分は偉い」と、聞きもしないのにのたまい自己顕示欲全開で哀れな姿を晒しているじっちゃんがいました。



そういう見方をしている私も、やはり傲慢な人であり、自分都合で物事を見る色眼鏡の色度が強い煩悩具足なる凡夫だと、反省するばかりでありますがね。

そして反省し、反省している自分に対して酔いしれて、またしても私に「慢の煩悩」が燃えさかります。



では、そういう人達、私も含めてですが、傲慢な人は謙虚な人にはなれないのか、と申し上げますと、そうでも御座いません。

そのヒントを、真言宗の僧侶であられる名取芳彦さんが記して下さっています。

その事について、この「般若心経 心の大そうじ」の29ページからか、もしくは名取芳彦さんのブログ「ちょっといい話」の第122話に、記して下さっていますよ。



人は確かになかなか変わる事が出来ない、根強く残る部分がありますが、それでも「変われない事はない」というところに、一つの希望を見出しております。

傲慢な人から謙虚な人へ、変わる力となる仏教のエトス(行為様式・習慣)を、私も実践している事も交えて、お伝え致します。
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傲慢な人から謙虚な人になるエトスの共通の言葉「人身を頂くご縁は受けがたく有り難い」

傲慢な人から謙虚な人になるためのエトスとして、共通する事があります。



それは、
:人身受け難し
です。

わかりやすく申し上げますと、
「人身を頂くというご縁は受けがたいご縁であり、有り難い事である」
ということです。



現在、この文章を読んで下さっているあなたも、書かせて頂いている私も、人身、つまり人間の身体であります。

この、人の身を頂くというご縁は、歴史の積み重ねや連綿と受け継がれてきた人身のご縁によって、たまたまこうして人の身を頂いた、というわけです。

この辺り、各々の信ずる宗教教義や、輪廻転生説などと相反したりすることもありますから、これ以上は深掘り致しませんが、とにかく、人の身を頂けたこのご縁は有り難い事である、という事です。



考えて見れば不可思議なご縁ですね、こうして我々が人間の肉体を頂けたことって。



このことに感謝申し上げる言葉として、私は「人身受け難し」という言葉を味わい頂いております。

人の身を受ける事は有り難いご縁であり、なかなか無いと言う意味の「有り難さ」と、感謝申し上げる意味の「ありがたさ」を、私は毎日頂いております。



そして、そこから「傲慢な人から謙虚な人へ」という、今回の表題に繋がっていくのです。
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傲慢な人から謙虚な人になるエトス1:一紙小消息

傲慢な人から謙虚な人へ変わるエトスの一つ目は、
:一紙小消息(浄土宗)
です。



「一紙小消息(いっしこしょうそく)」とは、法然上人の消息(手紙)であり、浄土宗の勤行では、毎日読み上げる消息であります。

私も、毎日「末代の衆生を往生極楽の機にあてて見るに~」と、仏壇の前で頂いております。



そしてこの中に、
「うけがたき人身をうけて、あいがたき本願にあいて、」
という言葉が御座います。



私は、この「うけがたき人身をうけて」を読ませて頂くたびに、この身を頂いているご縁に感謝申し上げて、頭が下がる思いであります。

この身を頂けたことに、有り難き事への感謝を申し上げるというエトス(行為様式・習慣)を味わう事で、傲慢さに気づいたり、そこから謙虚になっていく道が開かれる。

私はそのように毎日を頂いており、一紙小消息を味わい頂いております。
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傲慢な人から謙虚な人になるエトス2:三帰依文

傲慢な人から謙虚な人になるエトスの2つ目に紹介するのは、
:三帰依文(さんきえもん)
です。



これは、真宗・浄土真宗の宗門大学などの学府なり、東西の本願寺で御法話を頂いた事がある人ならば、馴染みがあるやもしれません。

現在は、真宗大谷派では御法話の際に、お坊さんが御法話の前に門徒さん達と三帰依文を共に読まれます。

私も、3ヶ月ほど通っていたときに、毎日のように三帰依文を称えさせて頂いておりましたから、いつの間にか全文を覚えるに至りました。



ちなみに、真宗大谷派の三帰依文は、最後に「開経偈(かいぎょうげ)」と言いまして、御経を頂く前に称える偈文を書き下し文で読みます。



この真宗・浄土真宗が御法話の前に読まれます三帰依文の冒頭が、
「人身受け難し、今すでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く。」
です。

出て来ましてね、「人身受け難し」と。

これは「人の身を受ける事は難しい、つまり有る事が難いことであり、その上仏法を聞くということも難しい」という意味です。

人の身を受けて、更に仏法に出会い聞かせて頂くということは、大変有り難い事である、ということです。



その有り難いご縁を賜っている事に対して、私は感謝の念を抱かずにはおられんのですが、あなたは如何でしょうか。
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傲慢な人から謙虚な人になる修行として、行為様式の習慣とする意味のエトス

今回は、浄土宗と真宗・浄土真宗に御座います御言葉から、傲慢な人から謙虚な人になるためのエトスとして、

このような言葉を有り難き事と味わい、感謝申し上げることは、人の身である事を「当たり前」から「有り難い」へと受け止め方の変換が起こるのではないか、と思うのです。

このような受け止め方の変換や、傲慢から謙虚への方向転換も、一種の「回心」ではなかろうか、という考えも私には御座います。

「当たり前」と思っていた事は傲慢であり、人の身を頂けたという事は、実は大変なご縁の働きによるものであると謙虚に受け止められる、そのような事を思うのです。



そして、大切な事は、このような事を日々思い起こすために、
:毎日の習慣とすること
です。



ロゴス(言葉)だけあっても、なかなか身につかないものです。

私は経験上、エトス(行為様式、そしてそれを習慣化)が最初にあって、そこからパトスが芽生え、ロゴスの意味を真に頂く事が出来る、このように考えております。

だから、文字を観るだけでは無く「人の身を頂いたことは有り難いことだ」と声に出していう、これを習慣づける、というのが、今回話しました「エトス」の部分です。

エトス(行為様式・習慣)として紹介している以上、私は是非とも習慣にして、傲慢な人であるという自覚がある人は、謙虚な人になるための修行としてお持ち頂ければ幸いです。



もちろん、あなたにはあなたの宗教心なり宗派、信じず宗教教義があるでしょうから、無理に一紙小消息や三帰依文を毎日読めなんて言いません。

ただ、「人間として生まれたことは有り難い縁だ」という事や、「人身受け難し」というのは、宗教性を帯びていない言葉にまで簡略化されていると思います。

せめて「人身受け難し」を、毎朝鏡を見るときや、寝る前にちょっと思い起こすというエトスを実践し、傲慢な人から謙虚な人になるヒントにして頂ければ、嬉しゅう御座います。



合掌

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