有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。
あなたは、アルフレッド・アドラーという人物と、「嫌われる勇気」という本をご存じでしょうか?
新聞を読んでいると、世界一受けたい授業という番組で「嫌われる勇気」やアドラー心理学について、著者の岸見一郎さんが解説されるとありました。
自己啓発の源流と言われている、アルフレッド・アドラー心理学の「嫌われる勇気」という本は、本屋に行くと、未だに平積みされている光景を目撃することが御座います。
私も、自己啓発本を読んでいた時期に「嫌われる勇気」や、アルフレッド・アドラーさん関連の本を、買って読んだ事があります。
ちなみに、アドラー心理学を面白く、でもわかりやすく解説してくれている本は、精神科医のゆうきゆうさんの漫画がわかりやすかったと記憶しております。
このような、ベストセラーにもなっている自己啓発系の本は、確かに良いこともかかれております。
しかし一方で、盲信すると火傷をすることもあるだろうと、私は観ております。
ベストセラーになっているからと言って、売れているからと言って、万人に効く万能薬となり得るというわけでは御座いません。
今回は、嫌われる勇気やアドラー心理学について、良さと危うさを仏教の話も交えてお伝えしていきます。
嫌われる勇気やアドラー心理学で仏教・仏法にも共通する点
嫌われる勇気は、自己啓発書としては大ベストセラーで、今でも棚に沢山並べてあります。日本でアルフレッド・アドラー心理学の第一人者的な岸見一郎さんが、対話形式でわかりやすく書いてあるというのも特徴であり、それも人気の一つなのでしょう。
私も読んだ事はありまして、確かに頷けるところはあるにはありました。
アドラー心理学や、アルフレッド・アドラーさんの仰る幸福論なり承認欲求に関する話は、仏教・仏法にも似たような話はありますね。
人から承認されるというのは、相手あっての事であり、その承認は自分ではどうしようもありません。
他人が自分をどう評するか、相手がどのように自分を好いてくれたり嫌うかは、相手次第です。
自分都合に相手を動かそうと思ったって、そうは問屋が卸しません。
最近は「人を思いのままに動かす心理学、悪用厳禁」と、悪用する気満々の人だって買うだろうと突っ込みたくなるような本もありますがね。
仏教・仏法も、相手を自分都合で動かそうとしたり、世の中を自分都合に染めようとすることをいさめる教えがあります。
わかりやすいのは「無功徳(むくどく)」の話でしょうか。
「無功徳」は、見返りを求めない、承認欲求を満たすことを目的としないという教えもある禅語です。
承認欲求を満たすために苦心して、がんじがらめになる事は、アドラー心理学の幸福論からも離れる話であり、仏法から観ても苦の在り方であると言えます。
アドラー心理学の本「嫌われる勇気」が、劇薬と言われる所以と私が考える危うさ
「嫌われる勇気」という題名自体、挑戦的と言いますか、印象的でインパクトがあります。そのような印象があるアドラー心理学や「嫌われる勇気」は、
:人生の劇薬
という表現もなされます。
原因論しかしらずに、目的論やアドラー心理学の幸福論について初見でしたら、劇薬的な転換が起こるかも知れません。
私は仏教徒・仏教者で「因縁果」と、目的論に頷いてはおりますが「善因善果、悪因悪果」という禅語にあるように、やや原因論寄りの立ち位置かも、という自覚はあります。
最も、仏法には「因縁果・因果」について、「因」から考える方法と「果」から考える方法の両方があります。
一方、アドラー心理学や嫌われる勇気に書かれている事は、「果」から考える方法であると考える事が出来ます。
その上で「嫌われる勇気」に書いてある事に頷ける事はありますし、アドラー心理学も頷ける部分はあると思うております。
ただ、「嫌われる勇気」を読んでアドラー心理学にどっぷり嵌まり、狂信者的な人になってしまう危うさもあるのではないか、そのような可能性を観ております。
「嫌われる勇気=嫌われても良い」という誤解をしないか
「嫌われる勇気」は、自分への承認は相手が決める事で相手に委ねるしか無く、:自分自身が選ぶライフスタイルに勇気を持つべし
というメッセージが、アドラー心理学にあります。
でも、これを浅く薄っぺらくしか読まずに「嫌われても良いんだ!」という短絡思考をしてしまわないか、という懸念が御座います。
仏教では、相手が嫌うことや嫌がることをしないという生き方や在り方「慈悲喜捨」や、それを実践する「布施波羅蜜」などの教えがあります。
でも、お布施をして相手がどう思うかは、相手に任せるしかありません。
その時に「別に嫌われても良いや」ではなく「相手を助けたい、でも助けられずに嫌われてもそれは致し方なし。」という「明らかにする」という意味の諦めも教えています。
この「明らかにする=諦める」が、アドラー心理学の承認欲求や「嫌われる勇気」に繋がる話です。
ここで肝心なことは「嫌われても良いから何をしても良い」という、わざわざ嫌われるようなことをしてもよい等と、仏教では一言も言っていないことです。
このことについては、「歎異抄第13条」の「本願ぼこり」でも観られる教えです。
「薬があるからと言って、わざわざ毒を飲む事はない」という部分です。
その辺り、「嫌われる勇気」を読んで、「承認するのは相手次第だから、好き放題やっちゃおう」と、短絡思考になる人が出てこないかどうか、という懸念が、私にはあるのです。

嫌われる勇気やアドラー心理学の本を盲信して、人に強要する危うさ
こういった自己啓発に嵌まる人で、厄介なのが「人に強要するに至る事がある」ということです。自己啓発本に書かれていることで、実際に自分が試すまでは良いでしょう。
人生は目的論で生きるべし、嫌われる勇気をもつべし、と、自分でやられる分には問題ありません。
でも厄介な事に、それを今度は人に強要する人が出てくるという怖さや危うさがあります。
自己啓発には宗教的な側面もありますから、盲信する狂信者が現れる事もあります。
やたらと「何々理論ではこうだから君は間違っている!」「アドラー心理学ではこうだ、だからこれが正しい!」という人が、周囲にいらっしゃいませんか?
確かに、アドラー心理学はそれはそれで尊い教えですし、「嫌われる勇気」は良著なのだと思います。
でも、絶対化したり一神教化してしまい、それを周囲に振りまく危うさもあり得る、そのように私は考えております。
私の読み方が浅かったのでしょうが、アドラー心理学や「嫌われる勇気」には、教えを他人に強要しないようなブレーキなりリミッターは見当たりませんでした。
そのような意味において、私は「確かに嫌われる勇気やアドラー心理学には劇薬的要素があるな。」と思うたものです。
もし、「嫌われる勇気」に、他人に強要したり狂信者化しないためのリミッターやブレーキとなる部分があるなら、教えて欲しいものです。

アドラー心理学と仏教を同時に学べる本
このお堂(ブログ)は、在家仏教者である私が話をしていると言う事で、仏教とアドラー心理学に関連する図書についても、伝えさせて頂く事に致します。アドラー心理学を盲信して、アドラー心理学狂信者にならないための、別の視点も読む事が出来るでしょうから、上でお伝え致しましたリミッターなりブレーキにも同時に学ぶ事になり得るかと存じます。
嫌われる勇気で有名になったとも思えるアドラー心理学については、唯識についてかかれた本でも紹介されておりまして、それが一冊目に紹介させて頂く本です。
一冊目は、母校である龍谷大学で教鞭を執られた研究者の方々が集結して出された本です。
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現在は、もう新品で手に入れるのは困難でしょうから、中古本か図書館で手に取るくらいしか、方法を思いつきません。
この本は、唯識論について書かれておりまして、アドラー心理学と唯識について、1項目のわずかなページ数だけではありますが、記載が御座います。
かなり専門的な本、専門書レベルですから、仏教とアドラー心理学に、それも唯識によほど興味関心惹かれるものがある人だけ、手に取られると良いでしょう。
唯識論とアドラー心理学は共通点と相違点があり、お互いに補い合うことで力を発揮することもあると、その本にはかかれております。
2冊目は、「仏教とアドラー心理学」という本です。
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著者である岡野守也さんは、仏教心理学者であり、唯識心理学を研究されている方です。
共通する事や相違点を学びたい方は、こちらの方が読みやすいでしょう。
「嫌われる勇気」だけを読んで、アドラー心理学を知った気になってしまっている自覚があるならば、これらの本を、一度は立ち読みくらいはしておくと良いのではないか、と、お節介なことを思う次第で御座います。
「唯識ーこころの仏教」は、運良く古本屋になかったら、立ち読みも出来ないのですがね。

アドラー心理学の本や「嫌われる勇気」を盲信しないリミッターを
仏教界にも、狂信的に盲信する人の出現など、そういった事例はあります。仏教の各宗派の教義には、ブレーキやリミッターとなる教えもあるにも関わらず、です。

原始仏教や仏陀の教えるリミッターの一つに、「他教団や他の宗教を非難・批判しない事」とあります。
浄土宗でしたら、法然上人が御文や書に「智者の振るまいをせずして」という言葉を遺されていたり、流罪になった時も「恨んだり憎んではいけない」と教えて下さっています。
法然上人は、父親の命を奪われるという経験をされています。
しかし、父親から「絶対に恨んで復習してはいけない、復讐の連鎖を断ちきらねばならない」という遺言を守り通して生涯を終えていらっしゃいます。
それゆえに、流罪になった時にも弟子達に「恨んではいけない」と諭されたのでしょう。
今回の話についても、これは覚えておきたい事柄で御座います。
アドラー心理学の本を読んだり、「嫌われる勇気」を読む事は良いのですが、それに毒されたり、盲信・狂信したりする事は、よろしくありません。
そうならないために、自覚的な対処が必要です。
上でお伝えしたような、別の角度から観た本も活用する、というのも、一つの対処方法です。
もしかしたらこの先、「嫌われる勇気」を浅く読まないようにとか、アドラー心理学を誤解しないように、岸見一郎さんが歎異抄的なアドラー心理学の解説書をかれるかもしれません。
親鸞聖人の教えを、誤解してしまわないために、「歎異抄」を書かれた唯円さんのように。
むしろ私は、そのようなリミッターとなる本を出されることを、願うところで御座います。
合掌