歎異抄と悪人正機説|法然上人と親鸞聖人

有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。

NHK・Eテレで4回に渡って解説された100分de名著「歎異抄」が終わり、一段落しております。
4c94c10e66d65b28f7c5e726d89945b2_s 歎異抄と言えば本願他力や悪人正機説、悪人正機説と言えば親鸞聖人というイメージを持っていらっしゃる人も多いと思われます。



特に100分de名著「歎異抄第2回・悪人こそが救われる悪人正機説」を学んで読み解かれた人なら、そのようなイメージが出来あがったかもしれませんね。

「仏教における善人と悪人」という概念も、同時に釈徹宗さんが解説して下さったから、誤解しにくく理解を深められたであろうと、勝手に私は妄想しておるところであります。

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悪人正機説は親鸞聖人オリジナルではない?法然上人の言葉

本願他力・他力本願と悪人正機説は、歎異抄と親鸞聖人の思想を学ぶ上で、必ず通る道だと、私は考えております。

そして、100分de名著「歎異抄」や、仏教に触れる際に最初に歎異抄を読んだと言う人なら、「歎異抄と言えば悪人正機、悪人正機説と言えば親鸞聖人だ」と、覚える人もいらっしゃるでしょう。



実は、悪人正機説そのもの、悪人正機の概念そのものは、親鸞聖人より以前の浄土仏教にもありました。



浄土宗の御宗祖、法然上人も悪人正機についての概念をお持ちであり、他力の概念も以前からはあったのです。

この事については、100分de名著「歎異抄」や、釈徹宗さんの解説本「親鸞の教えと歎異抄」他で解説されています。

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私としては、釈徹宗さんの「親鸞の教えと歎異抄」と同時に「法然親鸞一遍」も併せて読む事で、浄土仏教の理解も深まると思うております。


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悪人正機の話「悪人こそ救われる」という思想そのものは、実は法然上人も話されていたことは、法語集に記されています。

法然上人の悪人正機説について代表的な書物が「法然上人伝記(醍醐本)」にあるフレーズです。



そこには
:善人尚以往生況悪人乎
(善人尚以て往生す、況んや悪人をや)
とあります。

「うちのお寺は浄土宗」や「あなたの知らない法然と浄土宗」などの本にも、この解説はあります。



ただし、法然上人は逆の事も仰っています。



私も勤行で読ませて頂いている「一紙小消息」
:罪人なお生まる。況んや善人をや。
と書いてあります。

私は先に悪人正機説を知ってから、この一紙小消息と出会った事もあり、最初は「え?どっちですか?」と思ったものです。

この、なかなか着地させて下さらない揺さぶりも宗教であり、また仏教的だとも感じます。

善悪を超えて救われるという思想が、法然上人の仰る「善人」「悪人」という言葉にあるのではないか、そのような事を思うております。



そもそもとして、法然上人は善人も悪人も愚人もひとしく往生する、という往生観をお持ちであられる方です。

善人だからだめ、悪人だから無理、というような見方ではない事が窺えます。



話が歎異抄や親鸞聖人の悪人正機から、法然上人の悪人正機説や一紙小消息に移りましたが、残っている文献などから、悪人正機説は親鸞聖人が初というわけではなさそうです。



でも、だからといって歎異抄が色あせたり、親鸞聖人や唯円さんがパクリというわけではありません。

本願他力や悪人正機の思想なり概念を、構成に受け継いでゆかれる機縁になったのは事実でしょうし、歎異抄も親鸞聖人の教えも大きな役割があったのは確かだと思うております。

むしろ私は、法然上人が説かれた「善人なおもて往生す、いわんや悪人おや」という、善人も悪人も六字の名号、お念仏で救われるという教えを後世に「歎異抄」という形で残して頂けたご縁に、有り難さと尊さを感じる次第で御座います。

誰がオリジナルか、という論争はあるでしょうが、私は「悪人も善人も往生出来る救いの喜び」という味わい方をさせて頂いております。
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親鸞聖人的な悪人正機説「悪人正因」

ここからの話は、釈徹宗さんの「親鸞の教えと歎異抄」の受け売りと言いますか、本の内容を私なりに解釈した話です。



歎異抄第三条は「煩悩具足のわれらは・・・」と始まります。

そして
:他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり
という一文が出て来ます。

最後に「仰せ候ひき(親鸞聖人はそのように仰せになりました)」とありますから、唯円さんによる親鸞聖人の教え、お言葉の解説と言う事がわかります。



ここで、釈徹宗さんは「正因」という部分に注目されていて「悪人正因」という言葉で解説して下さっています。

悪人正機の「機」は「対象」という意味の言葉です。

つまり、悪人正機を直訳すると「悪人こそが救われる対象である」という意味です。



一方、親鸞聖人が仰せになった「正因」とは「往生の原因である」という意味となり、
:悪人正因=悪人こそが往生の原因である
という意味です。

親鸞聖人や歎異抄の悪人正機説を理解するには「悪人正因」の概念が凄く助けになります。



そもそもとして、概念や教えそのものはご存じだったでしょうけれども、親鸞聖人ご自身は「悪人正機」という表現をされていなかったという説もあります。

浄土仏教の悪人正機説について親鸞聖人の解釈が「悪人正因」である、と読み解けば、なるほど、と、私は思うところであります。
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悪人正機説や歎異抄に限らず、仏教を何度も学ぶ

100分de名著「歎異抄」では、結構走って駆け抜けた感じがします。

釈徹宗さんの解説や、伊集院光さんの例え話はわかりやすかったのですが、それでも歎異抄を100分でまとめるのは大変ではなかろうか、と、番組が始まる前から思うておりました。



ゆえに、きっかけとして凄く大きな意味・意義がある番組でしたが、ここから歎異抄をどう読むか、深めていくかは、我々次第と言ったところでしょうか。



それを言うならば、歎異抄に限らず、仏教の教義そのものが、何度も学び、読み、迷ったりしながらまた学ぶ、の繰り返しだと私は思うのですけれども。



私は歎異抄は大学時代に出会って、当時は「なんのこっちゃ?」で終わっていました。

そして、仏教徒再会し、禅や法然上人について学び、その間に歎異抄と再び出会い、改めて100分de名著「歎異抄」で、何度目かの再会をしております。

そしてそのたびに、読み方や解釈、理解の仕方が変わっている事に気がつきました。

悪人正機説も、浄土宗の勤行をさせて頂くようになってからと、その前とでは理解や深みも違ったものです。



今回は、悪人正機説と歎異抄について、そして法然上人と親鸞聖人について、少しだけですが触れる事となりました。

今回の話で、法然上人が悪人正機説の発祥であり、親鸞聖人の悪人正機説は違うとか、そういう議論をしたくて話を展開したわけではありません。

大切な事は、悪人正機説をしっかりと学び、それを私達がどのように頂いていくか、このことが大切ではなかろうかと思うております。



そして、悪人正機説に限らず、仏法はその時々で、頂き方や味わい方も違ってきます。

当然、そうなると解釈も違ってきますから、仏法は何度も何度も触れて、学ばせて頂き、聞法・弔問させて頂く事が大切であると、今回改めて感じた次第に御座います。



私は、ちょくちょくと東西の本願寺をはじめ、お坊さんの御法話を聴聞させて頂いており、特に真宗・浄土真宗のお坊さんは、このように仰います。



「仏法は毛穴から染み込む」



これは、何度も何度も仏法を聞き続けること、浴び続ける事によって、頭で賢しらに理解するのではなく、毛穴から染みこんで腑に落ちていく、という感覚・感性で御座います。

悪人正機説も、今後何度か触れていくことによって、ふっと毛穴から染みこんで、腑に落ちるときが来るやもしれません。



そう思えば、歎異抄は浄土仏教や親鸞聖人の教えを学ぶと言う事以外にも「書の読み方、本との向き合い方、接し方」も変えて下さる、そのような力もあるのかもしれない、そんな事を考える今日この頃です。



合掌

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