有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。
2016年4月の100分で名著「歎異抄」も、4月25日の本放送で最終回を迎えました。
釈徹宗さんのわかりやすい解説によって、理解を深められたという方もいらっしゃるのではないかと思います。
私も、以前読ませて頂いた釈徹宗さんの歎異抄解説本「親鸞の教えと歎異抄」の復習にもなって、有意義な100分を過ごさせて頂きました。
100分de名著「歎異抄」の最終回は、「回心(えしん)」と、宗教についての話でまとめられていました。
日本人は無宗教の割合は60%から70%というデータと宗教儀礼・宗教行為の話
100分de名著「歎異抄」の最終回では、日本人に宗教の有無について尋ねてみると、:無宗教と答える人が60%
と、釈徹宗さんによる解説が御座いました。
Wikipediaやその他の定義では
「特定の宗教を信仰しない、あるいは信仰そのもの持たないという思想や立場」
とあります。
これは、特定の宗教に属していたり、特定の宗教に対して信心があるか、という意味の問いに対する答えによる数字ということです。
他のデータも観てみましたが「信仰を持たない、あるいは無宗教」と答える人は大体60%~70%というのは確かなようです。
ちなみに私は、30%から40%の側になりますね、浄土宗の檀家である自覚がありますし、在家仏教徒・在家仏教者としての自覚もありますから。
数字だけ観ると、無宗教であると答える人が6割~7割というデータはありますが、何らかの宗教行事や宗教行為を無意識的に行っている人は、かなり多いのではないかと思われます。
それに、無自覚的に宗教心をお持ちであられる方や、潜在的に内在している人も多いのでは無いかと、私は観ております。
例えば、100分de名著で伊集院光さんと釈徹宗さんがわかりやすい例を出されていて、
「おにぎりを踏みつけられない。」「畳を土足で踏みつけるのは抵抗がある。」
など、そのような例を挙げていました。
これは生活様式である部分もあるでしょうけれども、似たような行動様式や行為様式って、探せば見つかるものです。
最もわかりやすいのが、合掌して「頂きます」「ご馳走様」とする、あの食事の時に行う行為でしょう。
また、大晦日には何となく除夜の鐘を突きに行ったり、初詣をしたりと、宗教的行事に参加する人も多くいらっしゃいます。
宗教的行動様式や宗教行為を、釈徹宗さんは色々な著書で「宗教的エートス(エトス)」と紹介されていますけれども、無意識に宗教行為をされている事って、思い返せばあなたにもあるのではないでしょうか。
そしてその時に、何となく心地よさを感じたり、された事ってありませんか?
神々しい何かを感じたり観たりしたら、なんとなく無自覚的に両手を合わせる、合掌する、などなど。
これは私の個別的な見方でしかありませんが、日本人は無宗教だったり信仰心が無いのではなく、無自覚であるという割合が60%から70%なのだろう、そのように数字を見て取りました。
100分de名著「歎異抄」から学ぶ、ビジネスの世界に観る狂信者の危うさ
100分deで名著では、釈徹宗さんが宗教の危うさについても話をされていました。釈徹宗さんの話では、体系化された教義は、リミッターも備えている、と教えて下さっています。
歎異抄は、そのリミッターとして、制御装置として観る事も出来ると、テキストでも解説されています。
リミッター無き宗教については、テキストを読んで頂くと理解が深まるでしょう。
私が今回お話しさせて頂く危うさは、それとは別の危うさについてです。
今回の100分de名著「歎異抄」を観て、改めて、現在の商いの現場、現代社会の言葉では「ビジネス」と言った方がわかりやすいでしょうか、その場面について思う事があります。
ビジネスの世界では、特に特定の企業や商品について熱狂的なファンが居る場合「何々信者」と言い表されることがあります。
代表的な例が「Apple信者」という、アップル製品の熱烈なファンを言い表した言葉ですね。
実は、商い・ビジネスの世界、特にインターネットビジネスの世界や自己啓発系ビジネスの世界では、この「お客様の信者化」という手法なり在り方が流行っているような、そんな気配を感じます。
もちろん、インターネットビジネス以外にもあるわけですが、特にネットビジネス系や自己啓発系が顕著だという体感があります。
確かに、お客様が自分の商品やサービスを購入し続けてくれる「信者」となってくれれば、売る方はその後の経済的な心配が減りますから、一見良いように思えます。
でも、この事ばかりに囚われている、仏教の言葉を使うと「執着(しゅうじゃく)」してしまって、とりつかれているような人も散見致します。
それこそ、集金だけが目的になってしまった我利我利亡者を何例も観ましたし、詳しい知人にも教えて貰った事があります。
最悪なケースでは、詐欺をやらかしている人もいますからね、それも現在進行形で。
この現状を見て、私は
:カルト宗教の負の部分
を思いました。
典型的なのが、「自分の力で稼ぐことの大切さ」をうたい、それを強調するために「サラリーマン批判」を展開している人達です。
「そんな社畜人生で良いのですか?→このコンサルを受ければ自分の人生を取り戻せますよ→はい、コンサル料金50万円~100万円」
と、こんな流れです。
そして、その中には「私以外のメールマガジンや他の情報には目もくれないようにすること」と、施してくる場合があります。
「一点集中、一点突破の有効性」をうたっていて、一見すると確かに頷ける話ではありますが、外部の情報を遮断することによる洗脳やマインドコントロールの危険性があります。
怖いのが、お客様がそれで成功した(と錯覚する結果を得た)場合です。
そのお客様は信者化して、狂信者になってしまったら、もう大変。
狂信者になってしまい、そのコンサルや教え以外には耳を貸さなくなったりと排他的になった人も見聞きした経験があります。
この構造はまさに「カルト宗教の負の側面」が形になったものではないか、私にはそのように思えます。
こういう事は、要らぬ軋轢や争いも生み出す要因になります。
例えば、わかりやすい例としてApple信者の話を持ち出しますけれども、
「Apple最高、それ以外を使う奴はバカだ!」
と、排他的で他を否定する程になった場合、最悪、喧嘩になってしまいかねません。
断っておきますが、Apple製品を好きな人を否定するわけではありませんからね、私はiPadを親戚への贈り物として贈らせて頂いた事もありますし。
私は、100分de名著「歎異抄」を学び、宗教とリミッターについての釈徹宗さんの話を学んで、このことを思い出しました。

100分de名著「歎異抄」に学ぶ、「させていただく」という謙虚な在り方
100分de名著「歎異抄」の最終回で、:信心は一つである、親鸞聖人と法然上人の信心は一緒である
という部分について、解説されていました。
信心というと「信じる心」という、自発的な、それこそ「自力」によるものという印象を持っている人もいらっしゃると思います。
でも、法然上人と親鸞聖人の信心は、
「如来よりたまわりたる信心」
として、法然上人は「善信(親鸞聖人のこと)と私の信心は同じです」と仰ったのです。
この「如来よりたまわる信心」というのが他力の思想であり、そして「させていただく」という言い回しや概念に繋がる、私はそのように解釈しております。
信心や発願心というものも、自分から出て来たのでは無く、如来から賜ったものであるから、
:信じさせて頂く
という発想であり思想ですね。
そしてこの在り方こそ、謙虚さを忘れぬ在り方であり、ついつい自分都合にしてやろうという計らいに対する戒め、リミッターとして機能するのではないか、そのように私は思うております。
4回に渡る100分de名著「歎異抄」を読み、宗教や他力という概念と「させていただく」「おかげさま」について、あなたと共に考えるきっかけとなったのであれば、嬉しゅう御座います。
合掌