100分de名著「歎異抄」第3回

有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。

2016年のEテレで始まった100分de名著「歎異抄」も第3回が終わりました。
079966 第3回の100分de名著「歎異抄」は、本放送は京都知恩院のミッドナイト念仏に参加させて頂いていましたから、必然的に再放送で学ぶつもりでした。

ところが嬉しい事に、家族も釈徹宗さんが解説して下さる100分de名著を見たがっていたらしく、録画してくれていました。

本放送の録画と再放送での復習という形を取る事が出来まして、非常に、有り難い。

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100分de名著「歎異抄」のダイジェスト:「千人の命を」の話で機縁や時節を自覚する

第3回の歎異抄講座は、釈徹宗さんによるわかりやすい解説により、後半の第10条から第18条までを、一気に駆け足で進みました。

一気に駆け足で進みはしましたが、それでいて要点はきっちりとまとめられていたように思います。



私が歎異抄を改めて読んだとき、最も印象深かったのが、第13条の「専修賢善(せんじゅけんぜん)」です。

あくまで、私の場合は、ですけれども。



第13条は、なかなか結論へ着地させてくれない、もやもやとした感覚がある部分です。

この「なかなか結論へ着地させてくれない」「試行を繰り返させて頂ける」というのが、宗教の役割でもあると、私は頂いております。

すっきりと、白黒付けたがったり、無理に理性で分別をしようとする現代的な理性や知性への戒めとしての教えもあるような、そのような事も思いました。



第13条では、唯円さんが親鸞聖人とのやり取りを伝える場面があります。

親鸞聖人「ところで唯円さん、君、私の事、信じる?」
唯円さん「はい。」
親鸞聖人「じゃあ、私の言う事に背かない?」
唯円さん「謹んでお受け致します。」
親鸞聖人「じゃあ、千人の命を奪ってくれない?」
唯円さん「え!?私には一人も無理です・・・。」
親鸞聖人「じゃあ、なんで「お受け致します」なんて言ったの?」

現代風にすると、こんな言い回しのやり取りです。

これは、「自分は善人だから悪いことをしない」「あいつは悪い奴だから悪いことをするんだ」という考え方や解釈を戒めている、そのようにとらえられます。



仏教では「縁(えん)」という概念をとても大切に教えています。

「善因善果・悪因悪果」「因縁果」「因縁」などの禅語や仏教用語があるように、縁についての言葉が仏教ではあることは、ご存じだと思います。



そしてここでは、特に「機縁=きっかけ」や、物事のタイミング「時節」を考えると、非常にこの部分が理解しやすくなってきます。



世の中には、確かに善人に見える人や、見るからに悪人という人も存在します。

でも、例え善人であったり、超が付く程正直者で誠実な人であっても、絶対的に悪いことをしないとは限りません。

普段からとても良い行いをしていて、心も清らかである人がいたとします。

しかし、だからといってそのような人が、絶対に罪を犯さぬ、戒めを破らないとは限らないのです。

どんなに善人であると言われる人でも、ご縁が調えば、悪事を働いてしまう可能性を孕んでいる、それが人という生き物の性です。



将来にわたって、絶対に悪いことをしないと保証されている人間なんて、誰も居ないと言う事は、原理や理屈でもおわかり頂けるでしょう。



この事を表すわかりやすいエピソードが、浅原才市さんという「妙好人」と呼ばれる篤い在家仏教者の話です。

この話は、100分de名著「歎異抄」のテキスト(解説本)に書かれていますから、理解を深めたければそちらを読まれると良いでしょう。

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浅原才市さんという方は、大抵の妙好人関連の本に登場する、篤い念仏者・仏教者です。



浅原才市さんは、ある時
「才市さんを取材して本にまとめたいんですけれども。」
と依頼を受けたそうです。

でも、
「わしが今から、人の命を奪ったりするかもわからん、そうしたら、大恥かくでしょ。」
と言って、取材や本にされる事を断りました。

現代社会では、名誉欲や「もっとお金を稼ぐための材料になる」として、嬉々としてバンバン取材受けて本にしてもらいたそうな人は多いでしょうが、浅原才市さんは違いました。



「己という存在、人間という生き物の不確実性」を見逃さず、真摯にその在り方を一生涯貫かれた方であるという事がわかる話です。



また、仏教にはある女中さんと雇い主の話にも、今回の100分de名著「歎異抄」第3回で説かれた話を思わせて頂けるエピソードが御座います。



とても優しい雇い主である女性主人がおったのですが、在る時、女中さんは女性主人は本当に優しくて、怒らない人かどうか、遅刻を繰り返す事で試すことにしました。

そうすると、1回目、2回目は怒られませんでしたが、3回目は怒られる、という結果に到ります。

易しそうな人でも、機縁なり時節が調えば、怒る事だってあるという事を物語る仏教のエピソードです。



どんなに善人と呼ばれる人でも、悪いことをする「機縁」や「時節」が揃えば、さくっとやっちゃう事だってあります。

「魔がさした」というような理由によって悪いことをしてしまったという人も、人の歴史の中ではあるでしょう。



この事を考えた時に、私は歎異抄第13条や浅原才市さんの話は
「己が善人であるという傲慢さや増上慢の抑制・制御する戒め」
としての解釈も致しました。
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「薬あればとて、毒をこのむべからず」

歎異抄の第13条には、
:薬あればとて、毒をこのむべからず
という話も出て来ます。



これはわかりやすい例え話ですね。

別の例え話をすれば、「現在は様々な治療方法が確立されているけれども、誰も好きこのんで骨折したりしませんよ。」てなところでしょうか。

いくら毒に効く薬があるからと言っても、好きこのんで毒を飲む人は、そりゃおらんでしょう。

まあ、100%いない、とか、絶対いないとは言いませんけれどもね。
「絶対にそんな事は無い」と言い切らないところも、仏教的です。



歎異抄の第13条では、この例えを用いて
:救われるという事を言い訳や免罪符にして、悪行をしても良い理由にはならない
という事を言っています。



確かに、悪人でも救われる、生きるためとはいえ仕方なく悪業をしている人も救われるというのだから、「だったら悪いこと、やったれ!」と、拡大解釈する人がいてもおかしくありません。

唯円さんは、その事を戒めて下さっており、批判されているのです。

でも、「専修賢善」を説いて「悪い事してもOK!」という人を批判する人も、批判しています。

「批判の批判」です。



このことから第13条では「専修賢善」「造悪無礙」の両方を、極端に振り切らないように戒めていることが読み取れます。



この部分は、まさに仏教の教える「中道(ちゅうどう)」があるなあ、と、私は読んでおったり致します。
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「中道(ちゅうどう)」を生きる

確かに、歎異抄の第13条って、最初ぱっと読んだら「どっちやねん!」と突っ込みを入れたくなる人もいらっしゃるでしょう。

なんだか宙ぶらりんだなあって言われると、確かにそんな感じがします。

どちらにも着地させてくれない、もやもやとしたものを感じる人もいらっしゃるでしょう。



でも、両極端に振り切れっぱなしにならない「中道(ちゅうどう)」という、仏教が大切にしている教えを生きるためには、このふわふわした感じを引き受けなければならん事もあります。

現代社会、理性的で白黒はっきり付けたがる世の中においては「勘弁してくれよ」と言いたくなるのもわからんでもありませんがね。



だからこそ、このような揺さぶりや気づかせてくれる教えは仏教なり宗教の役割ですし、戒めてくれる教えだと、私は思うております。



さて、釈徹宗さんによる100分de名著「歎異抄」の講義もいよいよ次回の第4回で最後です。



合掌

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