100分de名著「歎異抄」第2回の放送|悪人正機説

有難う御座います、ようこそお参り下さいました、当庵(ブログ)住職の真観です。

2016年4月の100分de名著「歎異抄」の2回目の放送は、本放送で学びました。
057369 第2回は、歎異抄を象徴するとも言われているフレーズ「悪人正機」の一文が出てくる第3条と、親鸞聖人のお人柄も垣間見られる唯円さんと親鸞聖人のやりとりがある、第9条です。



今回も、解説者の釈徹宗さんが、わかりやすい例をお用いながら鋭く解説して下さっていますよ。



歎異抄は、この悪人正機説の第3条をはじめとして、独特な言い回しもありますから、確かに誤解しやすかったり、解釈が多様になるかなあ、と、改めて考えさせて頂いた第2回の放送でした。

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歎異抄の単元については、再放送もあるから、有り難いと思うております。

再放送でしっかり復習することで、更に学習と考察を深められますし、誤解無く歎異抄を学べる機縁ですからね。

100分de名著「歎異抄」第2回放送で学ぶ悪人正機説の逆説的な言い回し

釈徹宗さんは、100分de名著「歎異抄」の2回目の放送にて、宗教の特性や役割、本領についても解説していくださいました。

歎異抄の第3条、悪人正機説の部分は、まさにその本領や醍醐味と言える部分ですね。



歎異抄第三条には
「善人なおもつて往生をとぐ。いわんや悪人をや。」
という、有名な一文が出て来ます。

普通(?)に考えると、
「悪人なおもて往生をとぐ。いわんや善人をや。」
と思われそうですが、ここでいう「悪人」「善人」の定義が、鎌倉時代の社会や価値観・価値体系も絡んできますから、定義から学ばないと誤解してしまいます。

「善人=自力で悟る事や往生出来る人」
「悪人=どんなに修行しても迷いの世界から離れられない、煩悩具足の凡夫」
という意味で捉えると、わかりやすいでしょうか。



浄土真宗の教義や本願他力の概念は、阿弥陀仏はこの定義による悪人こそお救い下さるという教えです。

煩悩具足の凡夫である悪人がまず救われる、でも善人、自力の人もちゃんとお救いされますよ、と言う事です。



釈徹宗さんはこの部分を、
:正機と傍機
という概念を用いて解説して下さいました。

阿弥陀仏の本願、お救い下さる順序としては、阿弥陀仏が救う対象のストライクゾーンが「正機」です。

ストライクゾーンから外れたのが善人で「傍機」ですが、阿弥陀仏はそこもカバーしておりますよ、ということですね。



そして、阿弥陀仏は更に逃れようとする人、「救われたくない!」と、逃げまくる人でさえもお救い下さるということも、釈徹宗さんが第2回の放送で解説して下さっています。

阿弥陀仏のお救いの手から、どんなに逃れようとしても、結局は救われてしまう、と言う事です。

なんとも懐が深いと言いますか、もしかしたらお節介と思われる人もいそうな、阿弥陀仏への解釈です。
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100分de名著「歎異抄」の悪人正機説の補足:法然上人の悪人正機の言葉

100分de名著「歎異抄」第2回放送では、親鸞聖人の教えや歎異抄において、最も有名とも言われる「悪人正機説」について、解説されております。

そして、私のように浄土宗と関わりのある人や学んだ人ならば、法然上人も「悪人正機」について、伝えられている事をご存じの事かと思われます。

悪人正機説と言いますと、親鸞聖人の言葉であるというイメージがありそうなものですが、法然上人が親鸞聖人以前に仰っていたことが、醍醐本(法然上人伝記)に記されております。



醍醐本には
:善人なおもて往生す、いわんや悪人おや
と御座います。

親鸞聖人の言葉は「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」とあり、微妙に違う部分がありますが、意味はほぼ同じものと捉えて差し支え無い事でありましょう。

もっと厳密に言うならば、親鸞聖人が法然上人から口伝された事柄を、親鸞聖人の同朋であった唯円さんが歎異抄に記した、ということになります。



法然上人は、実は全く逆ではないかと思われる言葉を、「一紙小消息」に記されています。

往生について、その消息(手紙)には
:罪人なお生まる、いわんや善人をや
と記されてあります。



これは、前後の文も読んで頂きたいところでありますが、今回の悪人正機説と比較してみると、これは言うなれば「善人正機説」とも捉えられる文です。

私は、これを読ませて頂いたときに「どっちなんですか法然上人」と思うたもので御座いますが、法然上人の往生観を読めば、何となくみえてくる事がありました。



法然上人は、「ただ生まれつきのままにて念仏すれば、悪人善人愚人もひとしく念仏すれば往生する」という往生観をお持ちであると、学ばせて頂いております。

このことは、念仏するのにどうすれば良いのか、について法然上人が説かれた話を読めば、なるほどなあ、と思えてきたものです。

法然上人曰く「一人できないなら、連れ合いとすればよし、一人で出来るなら一人ですればよし」という旨の話を説かれています。



このことを読み解けば、悪人だからどうのこうの、善人だからどうのこうの、を端的に述べていらっしゃるのではなく、みなお念仏で等しく往生出来るのだという、救いの希望が見いだせるのでしょうか。

現時点での私は、このように味わいを頂いております。
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「浄土宗」と「真宗・浄土真宗」についての補足は100分de名著「歎異抄」のテキストで学べる

今回、テキストを購入している人でしたら、浄土仏教系の宗派名にもなっている
:浄土宗
について解説がされていますから、すでにご存じかもしれません。

ここでは、補足的に「浄土宗」「真宗・浄土真宗」という言葉について、単に一宗派の名前ではないということを解説しておきます。

テキストを読んで頂ければ、100分de名著「歎異抄」の予習復習にもなりますし、今回の私がさせて頂く話も、より理解が深まると思います。

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まず、浄土宗についてですが「浄土宗(じょうどしゅう)」と言うと、私の実家が浄土宗の檀家で、私も浄土宗の在家仏教者です。



この「浄土宗」という宗派の名前や言葉の由来は、法然上人が仰った言葉である事は確かです。

法然上人の書かれた「選択本願念仏集」という書物に、
「浄土宗の意、本凡夫のためなり・・・」
とありまして、ここで「浄土宗」という言葉が出て来ます。



ちなみに、私も毎日の勤行、夕の勤行時に声を出して読ませて頂く「一枚起請文」にも浄土宗という言葉があります。

「一枚起請文」の後半部分に
「浄土宗の安心起この一紙に至極せり。」
という一文がありまして、私は毎日読ませて頂いております。

「一枚起請文」は、浄土宗の教えや教義、法然上人の教えを簡潔にまとめられている大切な文章が記載されておりますから、毎日唱える・称えるために勤行に組み込まれたのでしょう。



「浄土宗」という言葉、宗派の名前の由来や出所がわかったところで、「真宗・浄土真宗」についても補足しておきます。

親鸞聖人が宗祖と言われている宗派は「真宗・浄土真宗」ですからね。



浄土真宗の篤信門徒さんでしたら、毎日「正信念仏偈(正信偈)」を称えられていますでしょうし、一発で分かるでしょう。

正信偈のかなり後半部分、源空(法然上人)の名前が出てくるところで、
:真宗教証興片州・選択本願弘悪世
という偈文が出て来ます。

また、「浄土真宗」という言葉は「愚禿悲歎述懐和讃」に、
浄土真宗に帰すれども、真実の心はありがたし」
という一文があります。

どんぴしゃりで「浄土真宗」という言葉が出て来ましたね。



浄土宗や浄土真宗・真宗という言葉は、現在は確かに一宗派の名前として認知されています。

ただ、元々は
:浄土の宗意、浄土の宗の教え
:真実の宗の教え、浄土の真実の教え
という意味があり、一宗派の名前として使われていた言葉ではありませんでした。



この辺りの歴史も紐解いて理解していくのも、宗教学や宗教の歴史、仏教の歴史を旅する面白さであり興味深さだと私は思うております。



合掌

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